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『ALICE』

ラーメンズ第15回公演DVD。
前にもちょっとふれたが、これを見て1週間、精神的に参ってしまった。
総公演数69ステージ、総動員数33000人のコントライブを見て閉塞感に苦しめられる方がおかしいという判断をせざるを得ないので、評論も書かないでおこうかと思った。
が、まあ、いいだろう。自分の方が少数だっていう自覚さえあれば、批評くらいしても良いさ。

このライブが持つ「イヤな感じ」は、基本的にカタルシスを与えることを拒否しているところからくる。
#10『雀』にもそういうところがあったが、こちらはより巧妙になっていて、一見これで良いかのような外観があり、そこがますます憂鬱になるところだ。



「後藤を待ちながら」
最後の方2人が、奥の部屋で「後藤にそっくりなフィギュア」を見つけ、興味を示したところで何かに気づき、驚いたところで一度暗転している。これはまともに考えれば、フィギュアは、知ったらまずい自分のサプライズ・パーティー(しかも誕生パーティーは昨日済ませた)の相談(というよりむしろいじめ)をしている2人の前に出るに出られなかった後藤本人だと気がついたことをさす。
当然、2人同時に「後藤!」とわめくべき場面だ。しかし、2人は何も言わない。
おかげで妙に腑に落ちない感覚が残る。
この作品、片桐仁が最初にやるのが、余興の「インコの物まね」で、最後にやるのが、気まずいままでのおめでとうであり、その2つがすごく似ている、というところがポイントだが、それを言いたいのなら、別に話の順番を組み替えたり、オチをわざと言わなかったりする必要はない。
普通に時系列に沿ってやることで十分に伝わる。
普通にやれば良いところを普通にやらないということは、そこに何らかの意図があるということだ。
で、仮に俺が作者で、「後藤!」とわめかせたくないと考えたとしたら、その意図は、客に後藤役を引き受けさせる、というところにある。
つまりラストの一番気まずいところを客と相方に押しつけて、岡田役の小林一人が暗闇に引っ込んでしまうという構図が意図されている。
自分一人が傍観者になるために、話の順番も組み替えられてこれが自然であるかのように見せかけられている。
普通の順番でやったら(「ハーレーの物まね」が普通の順番)片桐の台詞の後に小林が「おっ、インコの物まねですか?」と言わなければならず、傍観者として退場できないからだ。
・・・体の良い嫌がらせだと思うんだよね、これ。

「バニー部」
他から切り離して単体で見る限り、悪くはない。良くもないけど。
ただ、今までの作品を知っている人なら、これを「バニーボーイ」や「たかしと父さん」と切り離して見ることはないだろう。
それらとの関連でとらえると、「バニーボーイ」の発展形として作られたのに、結局「現代片桐概論」になってしまったという点が、何年経っても結局これかよ、って感じでイヤ。
逆「たかしと父さん」ととらえる向きもあろうが、私は「たかしと父さん」が逆「現代片桐概論」だととらえているので、一回りして、正位置に戻る。
「たかしと父さん」では、たかしが舞台の隅にいて、父さんの方がメインであったが、この作品では「現代片桐概論」同様、片桐仁が舞台の中央でじっとしている。
「現代片桐概論」と同じく、片桐仁を媒体とした小林賢太郎の独り言という作品。
なお、片桐仁は媒体無しで独り言を言える才を持つ人なので、「たかしと父さん」ではたかしが舞台の隅にいることになる。
「バニーボーイ」はもっと普通の作品に発展する余地があった作品だが、独り言方向に発展させてしまって、しかも昔と同じってとこが、つくづく残念な人だなあって思う。

「イモムシ」
一番痛かった作品。と、いうのは、先に『ポツネン』を見てしまったせいもある。

さて。
なぜレイコは2人の仲を1歩進める絶好のチャンスを、ため息をついてあきらめたのか。「こう、何か良い感じ」とは愛なのだ、とヒデに言わなかったのか。
理由は2つ考えられる。
1つは、同じ気持ちを確かに共有したのに、それが愛だと気づかないヒデの鈍さに呆れたから。ヒデが自分で気づくまで、母親のように見守る道をレイコは選んだのだ。
もう1つは、レイコがイモムシだからだ。
イモムシが人間と恋をしても何の展望も将来もない。さらには今の関係をも壊してしまうかもしれない。相手を苦しめたくないなら、せいぜい口をつぐんで今の地位に甘んじることだ。
この2つは感情としては両立しうる。しかし、お話としてみるなら、全く別の意味を持つ。
前者であれば、希望がある。ヒデがレイコにキスをするところから見れば、こちらであると思わせるような外見がある。
しかし、愛を知らない人がキスをしても、それは何の証にもならない。その場のノリでキスしたのと同じだからだ。多分後々レイコばかりが苦しむことになるだろう。
やはり俺は後者であると思うのだ。
そうじゃなけりゃ、大体がイモムシって設定にしないからだ。
ヒデは生意気なレイコに対し、二言目には「おまえイモムシだろ!」とつっこむ。
人間とイモムシという障害を乗り越えようなんて気はさらさらない。
レイコに愛を語る資格はないのだ。

小林賢太郎は前者に見せかけた後者の話を作ろうとしたのではないと思う。
むしろ、前者の話を作ろうとして失敗したのだと思う。
そのような、ある種の揺らぎを感じる。というか、やはり俺も前者であってほしい、と思うのだ。
でも、違うものは違う。
「ポツネン」では確実に後者の話を作っている。
それを知っているから、俺にはこの話が苦しい。
お話というものは、作者の脳内世界を描くものだから、作者が心から信じれば、それはお話の中では真実になる。
前者の話を作れなかったということは、彼自身が希望を信じ通すことができなかったということだ。
彼は自分を騙しきることが出来なかった。信じたかったのに。
だから、この話は、痛い。イタイのではない。痛いのだ。
Commented by at 2006-06-02 14:45 x
はじめまして。
いつもとても興味深く拝見しておりました。
『○maru』から感じ始めた違和感が、『TAKEOFF』では完全に疑問形。
しかし称賛コメントしか見当たらないんですね。
もう「小林氏がやることは何でも素晴らしい」って人しか、観なくなってしまったのかのよう。
行かれるかどうかわかりませんが、k_penguinさんのご感想を楽しみにしてます。
Commented by k_penguin at 2006-06-02 18:19
コメントどうもです(たたかれなくて良かったー)。
別にアンチじゃないんですよ。ワタシは。

>もう「小林氏がやることは何でも素晴らしい」って人しか、観なくなってしまったのかのよう。

それでそろばんが成り立ってしまっているところがまずいところだと思います。
正直、TVの仕事を辞めてなければ、『ALICE』だってこうならなくてすんだとまで思ってます。

と、文句ばかり言ってますが、何事もなかったかのように
『TAKE OFF』には行きます。はい。
Commented by ぶう at 2006-06-09 16:16 x
ご無沙汰しております。ぶうです。
「ALICE」の憂鬱。またまた楽しく?読ませていただきました。
>別にアンチじゃないんですよ。ワタシは。
のコメントも好きです。あまり痛がっておられる憂鬱に少し心配になっていましたので・・・(大きなお世話ですね、失礼)
私が、最近小林賢太郎について思ったこと。「コドモダナァ。」
「TAKE OFF」の感想楽しみにしています。
Commented by k_penguin at 2006-06-09 23:03
ぶうさんお久しぶりです。
本日「TAKE OFF」観てきました。
後でみっちり具体的なダメ出しが入ります。
まあ、笑いましたけどね。

「ALICE」はマジ痛かったっす。
何が憂鬱って、ワタシだけがダメージ食らって、作った当人はけろりとしているであろうことでしたね。

>私が、最近小林賢太郎について思ったこと。「コドモダナァ。」
激しく同意。
Commented by せっきー。 at 2006-06-12 14:16 x
スミマセン。こちらも気になっていたのでコメントさせてください。
「ALICE」は難しいようで単純というか・・・。
コバケンの好きなアニメーション作家のヤンシュヴァンクマイエル
は御存じですか?
アニメと言っても絵だけでなく、クレイアニメや写真のコマ撮りなどを使って、怪しく不思議な世界を作るのが上手い作家なのですが。(好き嫌いの大きく別れる作家でもあるけど)
その作家の超編作品で「アリス」というのがあるんです。
あの、鏡の国のアリスを元にして作られた話なのですが、それを見ると「ALICE」ってまんまだなぁ・・・と。
彼はきっとこれを見て参考にしたのではないかと思うんです。
ハサミーマンとか、ラストの黒い表紙の本持って言葉を繰り返す・・・のとか。(日本語学校のバージョンと思われてるけど)
Commented by せっきー。 at 2006-06-12 14:28 x
ただ、「後藤を待ちながら」は元ネタが解りませんでした。
人形が出てくる・・・てのと、
ニキーズパビリオン(久ヶ沢さんが所属してたんでしたっけ?)に
「ゴトーを待ちながら」という演目があってそこから取った。というくらいでしょうか。
私、DVDでこの演目だけは飛ばしてしまうんです(笑)
おっしゃってるように後藤役が客席になっている時点で、どうして
笑いが起きるんだろ?と思って。
表現としては片桐さんが頑張ってる(色んな意味で)ので面白いと思いますけど。なんかもっと、片桐を信頼してもいいんじゃないかな?と思えてしまうのは病気でしょうか?
Commented by k_penguin at 2006-06-12 17:26
>ヤンシュヴァンクマイエル
あー、DVD手に取ってみたことはあります。
「ALICE」何か似てるな、とは思ったのですが。
今度見てみます。
ひねくれてるなあ、コバケン。ノルシュタインくらいにしとけよ。

「後藤を待ちながら」
あれは、片桐さんに対する嫌がらせだと思います。拗ねてますね。
どうせわからないと思って、客を巻き込んだとこが嫌いです。
Commented by せっきー。 at 2006-06-18 23:51 x
話の流れがずれてしまうかも・・・ですが、「後藤を待ちながら」について補足を。
第三舞台という劇団を御存じですか?
鴻上尚史が主催の劇団で、筧利夫などが所属していたのですが、
旗揚げ当時からやっている演目で「朝日のような夕日をつれて」
というのがあります。
そこにゴドーという男二人が出てくるのですが・・・(内容はDVDボックスが出てるので見てください)
元ネタがS・ベケットの「ゴトーを待ちながら」/1953 で、
二人の男が他愛のない話をしながらひたすらゴトーという男を待っている・・・という演目だそうです。
私は知らなかったのですが、演劇のバイブルと言われているそうです。「朝日・・」はそれを引用している舞台だと思われます。
Commented by せっきー。 at 2006-06-18 23:57 x
巡り巡って色々な所で引用されたものと思われます。
コバケンがどれに触れたのかは解りませんが、
「後藤」になってるからニッキーズパビリオンか、
踊る大走査線の筧さんつながりで第三舞台なのか・・・
どちらにせよ、内容共にそこから来てるのでしょう。
でも、「ALICE」の演目に関してはやっぱり意味が解りません。
私が見逃しているだけかもしれませんが・・・。
すみません、憶測でした。
Commented by k_penguin at 2006-06-19 02:10
ベケットの「ゴドーを待ちながら」は不条理劇として知られています。
要するに「よくわからんもの」の代名詞です。
「後藤を待ちながら」は不条理くさい外観を持っているので、ベケットをもじってタイトルを付けたものと私は考えてます。

コバケンは、形式や技術を他から借りることがあっても、決して内容を借りることはありません。
せっきー。さん自身おっしゃっていたではありませんか。
「参考にはするけど直さない」
彼も同じです。
彼は自分の話しかしません。
Commented by yuutin at 2007-07-29 23:42 x
初めまして。
いままで見ていたのですが、僕はどうやら「後藤を待ちながら」のオチ解釈を間違えていたようです。
僕は、後藤が人形になってて、
そんな後藤に仁さんが人形ながらも誕生日を祝ってあげる…というものだと思っていました。
そうじゃないのか・・・
Commented by k_penguin at 2007-07-30 00:21
yuutinさん、はじめまして。

「後藤」は不条理っぽくて分かりにくいので、いろいろな解釈が出てもおかしくないと思います。
ワタシは、この記事に書いたように解釈しています。

yuutinさんの解釈だと、後藤は人形好きが高じて、人形になったのでしょうね。
人間でいることを捨てた後藤にも誕生日を祝ってあげる片桐さんは優しい人だなあ、と思いました。
Commented by nao at 2009-08-11 03:21 x
初めまして。naoと申します。
どんだけ前の引っ張り出すんだよと思うかもしれませんが、
自分の思ったことを書いてみます。
「イモムシ」何ですけど、私は昭和の少女漫画のイメージで見ていました。だからでしょうか、絶好のチャンスをため息をついて諦めた点はk_penguinさんの言う前者の様に捉えました。
ここまでは一緒なんですけど、私はキスしたことは、レイコが自分のことを好きだとヒデが感じ、自分も好きだと思ったからしたのだと思いました。
ヒデとレイコ両思い説です。
出合った頃にF難度が出来てるのもお互い好きだからかな、と。
そうなると1度目から2度目の間は好きじゃなかったのかなという
矛盾が出てきてしまいますが、そこはヒデがモヤモヤしてたのかな
と。好きなのか、いやでもパートナーだしの様な。







Commented by nao at 2009-08-11 03:23 x
それと、「おまえイモムシだろうが!」ってのは、気になる子を
苛めてしまうというニュアンスだと思ってました。なのでヒデが障害を乗り越える気が無いという発想はビックリでした。
また、この辺が私が昭和の少女漫画のイメージで見た点でもあります。以上が私の思った意見です。多少強引なところもありますし、つたない文章で恥ずかしいですが、、、。
長々と失礼しました。ではでは。
Commented by k_penguin at 2009-08-11 13:29
naoさん初めまして。コメントありがとうございます。
この作品を「イモムシで少女漫画」ととらえる方も当然いらっしゃると思います。
出会っていきなりF難度→運命のパートナー発見!→でもなかなか進展しない。やきもき。→イベントが起きて愛情確認だ!
 は、スポーツ系少女漫画のパターンでもあります。
それでも私にはこの作品が少女漫画には見えない。

ヒデがレイコのことを好きと感じたのであれば、それはメタモルフォーゼ成功のとき以外にありません。
しかし、ヒデはそのときにキスしないで「いろいろ全体的にのってる感じ」がどうとか、くどくど言っています。
好きというのは言葉抜きの感情なので、好きとか愛とかの言葉を知らなくても、それが何かは知っているはずです。決して言葉で説明しようとしたりはしないです。
少女漫画だってそういう素敵なシーンでは、見つめ合うけど言葉は余り喋らない。
くどくど説明するヒデは愛という言葉を知らないだけではなく、根本的にレイコを恋愛対象と見てないのではないか、と私は思いました。
しかも決勝の演技直前にキスして集中を乱すって、何なんだ、と思います。
正直、決勝でメタモルフォーゼがまたできるとは思えないんです。
Commented by k_penguin at 2009-08-11 13:33
ヒデに恋するレイコは気の毒なので、ヒデもレイコを好きであればいいな、という期待含みの目線で見れば、まあ、両思いに見えなくもないけど、
客観的に見れば、ヒデにレイコを思いやっている様子は全く見られない。
レイコはヒデの怪我に気がついたりして、相手のことを思っている様子がありますが、ヒデの方にはそういう要素は全くない。
ただ、惰性と甘えでパートナーを組んでいるという感じです。
(「おまえイモムシだろうが!」も、惰性と甘えととらえました。とらえ方は人によると思いますが、)
視覚的にもレイコはただ真っ黒い球を連ねただけのイモムシで、
物体っぽさが強調されていて、踏まれてもたたきつけられても当然という感じです。

こういう理由で、私はこの作品は、
少女漫画に見せかけた愛されないイモムシの話
だと思うのです。
Commented by nao at 2009-08-11 21:18 x
自分のいまさらなコメントにお返事いただけて嬉しいです。
私は、ヒデは未だにメタモルフォーゼに必要なのが何かわかってないと思ってました。この人バカだな~と。
単純な人だろうから「見てたもん」といわれて両想いと発覚→キス
だと思いました。
ただ、k_penguinさんの意見を伺ってあぁそういう風にも見えるな~と納得してしまいました。

じゃあそうなると、何でメタモルフォーゼがさっき出来たの?
という疑問がぐるぐる回ってしまいます。
出来ればそこはk_penguinさんはどう捉えたのかお伺いしたいです。 ではでは。
Commented by k_penguin at 2009-08-11 21:44
>何でメタモルフォーゼがさっき出来たの?

メタモルフォーゼで変身(メタモルフォーゼ)するのは、レイコだけです。
つまりメタモルフォーゼは、「レイコが愛し合っていると感じれば」できるのです。
たとえそれが錯覚であっても。

ではヒデはレイコをどう思っているのか。
ヒデにとってレイコは多分特別な人(イモムシ)だと思われます。
(ときどき別のイモムシと間違えているようですが^-^;)
特別なイモムシなら、それは「愛」と呼んでも良いかもしれません。
でもそれはレイコの望む「少女漫画で描かれる愛」ではないです。
犬や猫を飼う人が、自分のペットに向ける感情みたいなものだと思います。
だってヒデは人間、レイコは「イモムシ」ですから。
レイコは基本的に恋愛対象ではないのです。
ただ、好きは好きなので、
レイコが、2人は愛し合っていると錯覚を起こすことはできます。
Commented by k_penguin at 2009-08-11 21:51
これ以降は半分独り言なので、わからなくても軽くスルーして下さい

・・・だとすると、F難度の「メタモルフォーゼ」の向こうにそれ以上の難度の技
「Wメタモルフォーゼ」があることになります。
つまり、2人ともあの丸いものに変身する技です。
これは極めて危険です。
「メタモルフォーゼ」はまだ1人は周りが見えていますが、2人供周りが見えない状態になるからです。
確実に舞台から落っこちます。

多分作者はそこまで考えていないで作ったと思いますが、
なんつーか、くらーい欲望を垣間見たような気分にさせられました。
Commented by nao at 2009-08-11 22:31 x
なるほど、レイコの錯覚、そして愛は愛でも恋愛じゃないって事ですね。
それなら納得です。
ん~、解釈って難しいなと感じます。
こういう時、正解が1つのものが羨ましく見えます。
皆違うから楽しいんですけどね。
後、Wメタモルフォーゼはあったら見てみたいです。
凄くフォルムがあほっぽそうで難易度高く見えなさそうですし。
なんか面白そうです。 
では大変失礼いたしました。
Commented by ろうきゅう at 2014-10-27 19:22 x
五年も前のブログにコメントするなんてと思うかもしれませんが、
少し皆様の議論に疑問を持ったので書かせていただきます。

あまり深くかんがえないで演目を視聴するので
なんとも皆様のご意見には目からうろこが落ちる思いです。
後藤を待ちながらに関しましてはしょ成云々はよくわかりませんが
話の流れで笑える場所というのは無かったかなと感じます。
オチに関しましては勝手な想像でお恥ずかしいのですが
第三の力によって後藤が人形になってしまったと感じてました。特に理由はないです。

気になったのはイモムシに関してです。

ヒデがレイコに対して
お前イモムシだろうが!
といったことに対して 壁を乗り越えるつもりがないとの見解を持たれていましたが
僕はそもそも壁なんて感じていなかったのではないか と思います。

非日常の中ということで少女漫画のような話を
人間と芋虫に互換したのではないかと個人的に思っています。
レイコとヒデはパートナーということで
少女漫画でいう幼なじみのような関係であったのではないかなぁと。


突然申し訳ありませんでしたー。
Commented by ろうきゅう at 2014-10-27 19:31 x
補足になります。

ビートたけしさんの言葉で
車椅子に乗ってる友人とそれを押してる健常者の私が
「お前頭わりぃよなwww」
「おお前だって足ねぇじゃねぇかwww」
なんて言い合える社会にしたい。(少々言い回しやニュアンスが違うかも)

といったのがありました。

健常者と障害者の壁をなくしたい
という意味だそうです。

このようなニュアンスで イモムシのふたりの関係を見てました。
Commented by k_penguin at 2014-10-27 21:21
ろうきゅうさん,コメントありがとうございます
…5年前?そんな前のことだったけ?
と,びっくりしてしまいました。

「後藤」のラストについては,皆さんわからなかったり,いろいろ想像したりしているようで,
ときどき検索ワードに上がっています。
ワタシは記事に書いたように,単に本物の後藤が固まっていただけと思っています。
マネキンが大量にあるから非日常のように見えるけど,あの作品に登場するものは全部現実にありうることやあるものなので,日常の世界の話なのだと思っています。

>イモムシ
あの作品は痛くて嫌いだったからずっと見ていなかったけど,
さすがに5年経ったし大丈夫だろうと,今もう1度見てみました。

で,まあ,大丈夫だったし,割と面白いじゃんって思ったんですが,
それでもやっぱり,レイコとヒデは愛し合ってはいない,と思います。

ろうきゅうさんが紹介してくれた,
ビートたけしさんの健常者と障害者の会話なんですが,これって,会話の字面だけではただの罵りあいにも見えますよね。
これが友人同士の会話とわかるのは,「www」(いわゆる「草」)があるからです。つまり,言外の要素が大きいのです。実際の会話では表情でこういうことは伝えます。

イモムシにおいて,レイコはテニスボールを連ねた物体ですから,表情がない。表情は言葉と分離され,小林が担当しています。でも,小林は黒子ですから,片桐さんは小林の方を見ないでレイコの方を見て会話をする。
イモムシの「表情」は人間には伝わらない。そういう設定の作品になっているのです。
レイコの表情は客には伝わります。だから少女マンガなレイコの思いを客は理解するし,ヒデに愛されて欲しいと思う。そう望むからこそラストは相思相愛と受け取る。
でも,ヒデはレイコの表情がわからない。
健常者と障害者の会話でいえば,「草」をぬいた状態として字面だけ伝わっている。これでは愛は伝わらないと私は思います。

「イモムシ」は,少女漫画的ハッピーエンドを装う作品だと思います。
5年前も,今も,私はそう思います。
5年前と違うことは,今のワタシは,
そのような作品を作らざるをえない作者の心情に踏み込むことが面倒くさいと感じるような無神経野郎になってしまったということです。
Commented by ろうきゅう at 2014-10-28 03:05 x
まさか返信いただけるとは思いませんでした。ありがとうございます。

ペンギンさんのご意見にはなるほどと頷かされます。
しかしやはり お前イモムシだろうが!関するわだかまりが晴れません。

この発言はたしかに罵ってるのですが
ヒデとレイコの関係を背景にすると捉え方が変わるのではないかと。

けんかするほど仲がいい とよく言いますが
まさにこれなのではないかと思います。
少なからず好意があるからこその発言であると。

発言内容に他意はないのでしょうが
発言することに関してはある程度の親交があってこそだと。

ペンギンさんのおっしゃってた
前者と見せかけた後者(内容は割愛)
というのはなるほどそうかもしれないと思います。

しかしヒデに恋愛感情が無かったのかというと少し首が傾いてしまいます。

夜遅くに申し訳ありませんでした。
Commented by k_penguin at 2014-10-28 19:13
お前イモムシだろうが!

を今見ると
会心のツッコミ!
という感じがして爽快ですね。
笑えるし,レイコの方も夜の蝶とか,イモムシつっこみを期待してるようなボケをしてるし。
ヒデとレイコは良いパートナーなんだろうし,良いパートナーに対しては少なからず好意があるでしょう。

でもそれは少女漫画的な,いわゆる恋愛感情とは違う。
レイコの方はパートナーとしての関係だけでは不満でやきもきしてるけど,ヒデは今の関係に何の疑問も持たずに満足している。
では,ヒデのパートナー感情は恋愛感情に発展するのでしょうか?

少女マンガの世界なら,競技上のパートナーは確実に恋人になれます。
でも,仮にそれがポケモン的な世界なら,ポケモンとブリーダーはポケモンとブリーダーに過ぎません。ポケモンは人間ではないので恋愛対象にはならない,という暗黙のルールがある。
ピカチュウとサトシが恋愛するのは,一部の同人誌の世界だけです。
そして,レイコが人間ではなくイモムシと設定されたということは「イモムシ」がポケモン的世界であるということです。

イモムシでも良いじゃん。
と言うことはできます。一部の同人誌的に思考して。
レイコの表情を知っている観客はそう言うでしょうし,作者もそう言って欲しい。
(だから「イモムシ」はポケモン的世界と言うよりは,「一部のポケモン同人誌的世界」なんでしょう)
でも,黒子の小林さんの表情を見ていなかったら,レイコはただのイモムシにしか見えないし
片桐さんはレイコしか見ていないのです。

ヒデは同人誌の世界には入ってこない。
同人誌は妄想に過ぎず,現実のルールを変えない。
「イモムシ」のテーマ,というか「ALICE」一貫してのテーマはそこにあると思います。
Commented by ろうきゅう at 2015-05-30 01:37 x
おひさしぶりです。

いやー。久々にAliceを見直しました。

改めて見てみて、penguinさんの評論を見てみると
なるほどと思わされたのと同時に
当時は納得できていなかったイモムシも
理解と同意ができました。

報告とお詫びを兼ねてここに書き落としておきます。
Commented by k_penguin at 2015-05-30 20:16
ろうきゅうさん,コメントありがとうございます

Aliceの頃の作品は,多重的で見るたびに
印象が変わったりしますね。
最近の作品はよく言えば透明感がある,悪くいえば薄いという感じかなあ。

KKTV7もまだみていない私ですが,録画はしてあるので
今の自分が見たら,どんな印象を持つかな,と
ちょっと楽しみです。
Commented by 後藤 at 2016-07-04 23:52 x
非日常の中の日常っていう前提を無視してただ叩いてる様にしか見えないなこのブログ。上から目線腹立つ
Commented by k_penguin at 2016-07-05 20:22
  それは残念至極ですな
( ´∀`)y━・~~~
Commented by 😃 at 2021-09-05 20:39 x
うーん批判してる俺かっこいいって思ってそうでキツすぎるな
Commented by k_penguin at 2021-09-05 22:10
> 😃 さん
15年前の自分が自分のことどう思っていたかは
覚えていませんねえ~
それよりも、あなたはALICEをどうとらえたかについて
聞きたいです。
by k_penguin | 2006-06-01 19:20 | エンタ系 | Comments(31)

法律事務所勤務。現代アート、NHK教育幼児番組、お笑いが好きな50代。


by k_penguin