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迷惑防止条例に引っかからないために(前説)   

植草さんファンブログ(現在ID拒否をいただき中)にTBしてきた記事などを読んでいてふと気が付いたのだが、冤罪の恐ろしさをひとしきり嘆いたうえで「男性は人混みに近づいてはいけない。やっていない迷惑行為をしたことにされてしまう。」と締める記事は多い。
しかし記事を書いた人も実際本気で何が何でも人混みに近づかないようにしようと思っているわけではないだろう。大体、大都市圏ではそれは不可能なことだ。
怖い怖い言うわりには現実の問題として余りとらえていないんじゃないかな、という気がする。

と、ゆーわけで、「李下に冠を正さず」。どの様な行為が「冠を正す」行為なのか、考察してみた。
都会の男性諸君、これですももの木の下にいても安心さ!

まず、条文。条例だから地域によって違うわけだけど、東京と神奈川はこんな感じ。
「何人も、人に対し、公共の場所又は公共の乗物において、人を著しくしゆう恥させ、又は人に不安を覚えさせるような卑わいな言動をしてはならない。」

「公共の場所又は公共の乗物」はまあイメージできるとしても、「人を著しくしゆう恥させ、又は人に不安を覚えさせるような卑わいな言動」は具体性に欠けている。
こーゆー、行為を特定するのに解釈が必要なものは「開かれた構成要件」と呼ばれ、罪刑法定主義による自由保障と、条文によって保護されている利益(保護法益)は何かを考慮して解釈していかなければならない。
と、ここで気が付いた。
この条文、保護法益がはっきりしない。
あわててググったら、やっぱりはっきりしていないらしい。
社会的法益なのか、個人的法益なのかすらはっきりしない。
俺は何となく個人的法益だと思っていたが、そうであったとしても性的羞恥心なのか、身体プライバシー的なものなのかもはっきりしない。
この条文はちょっと開きすぎていて、罪刑法定主義との間で問題があるという気がする。

うーむ。しかし、記事のテーマはそこにはないから、それは置いといて、とりあえず法益は性的羞恥心と身体プライバシーってことでいこう。
では、典型例「女の子のパンツ盗撮」で考えてみる。
バンツの盗撮は女の子を羞恥させたり不安にしたりするだろうかというと、まあ、人によりけりだろう。別にパンツくらい良いと思っている人もいるかもしれない。また、撮られたと気が付かなければ当然、当人は羞恥したり不安になったりはしない。
つまり、ここで重要なのは、本当に当人が羞恥したかではなく、「客観的に見て一般人が、羞恥したり不安になる行為と評価する行為」であるかなのだ。
パンツの盗撮をしている現場を普通の人が客観的に見たら、「女の子が恥ずかしく思う行為をしている」、と評価するので、パンツ盗撮は迷惑行為になるのだ。

このように客観的に見て普通でない行為でなければ処罰の対象にはならない。
そうでなければまともな生活が送れなくなる。これが自由保障機能と呼ばれる罪刑法定主義の趣旨だ。
例えば、エスカレーターで上を見上げたら、女の子のパンツが目に入ってきたので、しばらく眺めていた場合、処罰の対象にはならない。靴のひもを結ぶのもOKだ。
客観的に見て普通の行為だからだ。


なんか長くなっちゃったから続く。
肝心の引っかからないための具体的注意は次回に持ち越しだ。
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by k_penguin | 2005-07-28 03:47 | ニュース・評論 | Trackback(1) | Comments(0)

裁判員制度は冤罪を減らすか   

植草さんの冤罪祭りからみでチョト考えたこと。

裁判員制度について俺は決して肯定的ではないのだが、唯一、期待できる点としては、冤罪が減るのではないかと思っていた。
冤罪の原因は多岐にわたるが、1度起訴されたものがなかなか無罪にはならない理由の1つとしては、裁判官と検察官の馴れ合いっつーか、同業者意識っつーか、そんなやつがある。
無罪判決は、検察官の成績に影響し、裁判官の成績にも影響する(らしい)。
憲法に無罪推定原則があるくせに、無罪が出たら検察官が責任問われるっつーのも変な話な様な気がするが、裁判のやり方がまずかったと評価されるということなんだろう。
まー詳しくは知らないが、そんなこんなで、殺人のようなでかいヤマならばともかく、しょぼい話で無罪判決出して、知り合いが左遷されるっつーのも嫌なものなので、ついつい無罪は出しにくくなる。
そ こ で 、そーゆーしがらみがない裁判員ですよ。
と、ゆーわけ(ま、裁判員はでかいヤマしかやらないわけだが)。

ところが、前の記事に書いたブログに目を通していたら、そこのブロガーは、冤罪の原因に裁判所と検察の「癒着」を挙げているにもかかわらず、裁判員制度については危機感を表明している。
一般人はマスコミや検察の情報に左右されやすく公正さが期待できないということらしい。
裁判員をとりまとめるのは裁判官であって検察ではないし、検察の主張だけでなく弁護側の主張も裁判員は聞くわけだが、それはともかく、一般人は一般人で裁判官とはまた別の不信を呼ぶ原因、すなわち「真面目に判断しない(orできない)だろおまいら」がある、という感覚を皆持つことは確かだと思う。

「真面目に判断するがしがらみには勝てないプロ」vs「しがらみはないが真面目に判断するかどうかは風まかせパンピー」
うーん。ある意味面白い試合だぞ。
野次馬で見るぶんにはな。


追記
捜査担当の検察官と、公判担当の検察官は原則違う人だ。
だから、捜査担当がへぼでまともな証拠を集められなかったくせに起訴をして、その結果無罪判決が出たら、責任をかぶるのは公判担当だ。
と、いうわけで、やっぱり無罪判決は出しづらい。

追記2 8月17日
ネットサーフで気が付いたのだが、コメントしてくれたヒロコさんが、この記事に「つっこみたいから」と、検察官に質疑応答する機会のあった方に、「無罪の判決がでた場合、検察官の方の評価に影響するか。」という質問を頼んだらしい(ヒロコさんもそういう有意義な質問をしたのなら、こっちに直接教えてくれればいいのにい)。
で、その答え。(Q2のとこ)
答えは「それはない。仕事の評価は数字であらわれるものでない。」である。
検察官の言ったことが正しいか、俺の聞いたことが正しいか(ソースはボス弁)、はもちろん俺にはわからない。
ただ、確実に言えるのは、仮に無罪判決が成績に影響するものであっても、検察官に公式に尋ねれば「それはない」と答えるに決まっているということだ。
無罪推定原則がある建前上、それはあってはならないことだからだ。
一応その旨、追記しておく。

追記3 11月20日
モトケンさんが関連エントリー書いてくれました。
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by k_penguin | 2005-04-12 01:27 | ニュース・評論 | Trackback(3) | Comments(7)

冤罪は何に対する罪なのか   

植草一秀って人については名前とあと経済学者だってことくらいしか知らないのだが、たまたま通りすがった、植草氏のファンブログに目を通して、ちょっと考えたことなど。

経緯を一応説明すれば、植草先生は、昼間の駅で女の子のスカートの中を手鏡を使って覗こうとしたというかど(都迷惑防止条例違反)で捕まり、当初自白するも、その後否認に転ずる。判決は50万の罰金で一審で確定。
上記ブログは植草氏の冤罪を信じ、主張し、不当判決に怒りをぶつけている。
が、あくまでも「植草一秀氏を応援します!」ことを趣旨とするブログなので、冤罪の構造に迫ることもなく、植草氏を応援していないコメントに反論することもなく、植草さんが良ければそれで良し、といった感じ。

要するにごくふつーのブログのわけだが、このふつーのブログに寄せられたふつーの意見の多くが、「真実は植草氏は覗いていない」ということを論拠としている点にむしろ俺は注目した。
要するに、「真実やっていれば仕方がないが、やっていないのだから捜査は、判決は不当。」と言っているのだ。
真実は1つであり、厳然と存在し、捜査、裁判はこれを発見しなければならない。これは一般人として当たり前の感覚だ。
しかし、この感覚は、決して捜査や裁判の関係者が持つ感覚ではない。
現実はテレビドラマではない。テレビでは、真実は映像化され、人の心の中はモノローグで語られるが、現実にはそのようなことはおこらない。
砂の上の足跡のような些細な痕跡が、それも真実も偽物も混じった状態で提示されるだけだ。検証すればするほど、真実は遠ざかる。疑い出せばきりがなくなる。
「真実発見」は刑訴の第1条に書いてあるけれど、法律的に不当判決を非難するのであれば、まず「真実ではない」とは言わない。「無罪推定原則に反する」とか「合理的な疑いを越える程度までの証明がなされていない」という。
真実は証拠により形成されていくものなのだ。


俺は仕事の上で冤罪に関わったこともあるので、冤罪というものが決してまれではないこと、起訴されたらまず有罪にされてしまうこと、従って、決してやっていない罪を認めてはいけないが、これがどうしてなかなか難しいこと、は知っていた。
また、警察は理由がない限り証拠隠滅等の細工をしたりはないが、理由があればやること、しかも、それが細工かどうか考える気力も無くすほど警察の証拠保全は初めからいーかげんであること、も知っていた。
だから、植草氏が本当にやってないかもしれないとは思っていた。
だが、それは重要な問題ではない。
50万の罰金は、彼が、初期捜査で罪を認めてしまったこと(つまり供述録取書に署名捺印したこと)に対して課せられたのだ。
かなり厳しい言い方だが、彼が自分自身を信じなかったことが罪ということになるのだ。

彼は、控訴はしないが、その他の手段で無実を主張してゆくと述べたそうだ。
しかし、どの様な手段であれ、裁判で争うことを放棄したという事実は無実の主張の信頼性に致命的なダメージを与える。
たかだか布きれ1枚を見ただの見なかっただの、そんな下らないことで自分を信じるだ何だのめんどくさい話になるのが嫌であれば、一切口を閉ざすべきだったと思う。
下らない話に関わって体力を消耗したくないという気持ちと無実を主張したいという気持ちの葛藤の末の結論だろうが、スカートの中を覗こうとしたという事実が下らないのか下るのかは、実は二者択一の重要事項なのだ。

そんな下らないことが、人間の名誉に関わる事実になりうる。
その人が学者であったとしても。
それこそが冤罪の恐ろしい事実ではないだろうか。
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by k_penguin | 2005-04-10 12:59 | ニュース・評論 | Trackback(2) | Comments(4)