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ラーメンズ(その4でラスト) 1人じゃないから大丈夫

DVD-BOX2クリア。
作品理解のために『雀』においてコバケンにあった「何か嫌なこと」(DVD解説より)を知る必要があったので回り道があったが、とりあえず現時点で一応終了(「何か嫌なこと」については、その3参照)。

その2で『鯨』の中の「絵かき歌」について言及したので、その続きから。
設定的には『ATOM』の「アトムより」が「絵かき歌」の延長上にあるのだが、今までのものとは決定的に違っている。内と外、の二項対立が無くなっているのだ。
「アトムより」も「絵かき歌」と同様、二人だけの世界の心地よい空間が広がっているように見える。
しかし、部屋の外は最早、何者かを装わなければならない空間ではない。だって、空にはアトムが飛んでいるんだもの。コバケンは「カメラをもって外に出よう」という。
そのかわり、自分の世界を共有してくれるギリジンは実はロボットだ。結局、コバケン1人しかいなかったのだ。彼はバッテリーを補充しながら、2人でいる振りを続ける。
逃避にも見えるが、逆に社会と和解したともとらえられる。彼は自然体のままで外に出られるようになったのだから。また、表現する者と受け手の関係とも捉えられる。
二項対立が無くなった分「絵かき歌」より世界が濃厚ではないが、優しい感じがする。

不甲斐なくてチャンスを逃したコバケンのそばにギリジンはいてくれた。自分で自分を許すことが出来なかった彼をギリジンは許してくれた。
コバケンは自分が1人ではないことに気が付いた、といっても良い。
このメッセージは改めて探してみれば、「雀」(『雀』)にも見つけることができる。ちょっと描写が不完全だが間違いなく、テーマは孤独と友情だ。

「蒲田の行進曲」(『CHERRY BLOSSOM FRONT 345』)と「バニーボーイ」(『CLASSIC』)で、気が付いたことがある。
この2つの作品では、コバケンはギリジンの矢のような攻撃にあって劇中で本当に取り乱している。台本とはいえ、他人の恣意の下にある状態は彼を混乱させるらしい。
そういう、自分を追いつめるシチュエーションを書く脚本はそれまで無かった。彼は初めて自分が「使われる」立場の作品を書いたのだ。
相手がギリジンだからこそ可能になった設定だと思うが、これは確実に彼の世界が広がっていることを意味すると思う。

彼の世界は変化しながら外を飲み込んでいく。
部屋の中だけにとどまっていたときの純粋培養的な美しさは低下したが、その代わり強靱になっていく。

これからが、勝負。
たのすぃみ~。(ギリジンツーリストのお客で)


*追記* 2006-10-15
えー、書いて1年もたってから、追記するのも変な話なんですが、
これは#13『CLASSIC』までの評論と思ってください。
もともとこれを書いた時点でも#14『STUDY』がどうしてもこの流れに沿わないのが疑問だったんですが、見切り発車で書いてしまいました。

今では『STUDY』はむしろ#15『ALICE』の前振りに属するものととらえています。
『STUDY』は、一見静かな作品だし、とっつきやすい作品だとは思うのですが、別の方向から見るといろいろ問題含みなので、今のところ、言及した記事はありません。
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by k_penguin | 2005-10-03 20:53 | エンタ系  

ラーメンズ(その3) Stage or TV? -Round2-

今月はラーメンズ強化月間。今決めた。

さて、1月ほど前に、舞台中心でほとんどテレビに出ない活動って、どうなん?的な話をしたが、先月に出たばかりのDVD『完売地下劇場REVENGE』に収録されている朝まで生バトルが見事に問題解決をサポートしてくれた。
水道橋博士を司会者とするこの討論はお笑いという表現活動を職業とすることについて考えさせられる多くの論点を含む、それ自体有意義な資料であったが、舞台活動からはわからないコバケンの弱点もよく見せていた。

それはつまり、協調性まるで無し。他人に使われることが出来ない、ということ。
これでは確かにテレビではやっていけない。テレビ番組は何をおいても共同作業であり、そして組織的な商売なのだ。
とはいっても、この程度の協調性の無さは、実力ある若い者ならデフォルト装備。
世間にもまれているうちに、角は取れるさ、と、いうのはあくまで他人が言う意見。本人にとっては崖っぷち。
ギリジンはふわりとした雰囲気のオタクさんだから、他人に頭を下げてはした金を貰うことについて割り切ることもできるだろう。しかし彼は、ラーメンズについて意見する立場に自分はないと思っている。

自分の意に反して頭を下げるくらいなら、金をたたき返す方がまし。
言い方はかっこいいが、その実、自分に自信がないことを隠す者が言う定番台詞だ。
「私は蛇とワニと戦って、下の娘を幼稚園にやりました!」と言い切る土田晃之の方がよほどかっこいいのだ(いやDVDに土田は出てないが)。
そのこともコバケンは知っている。自分は単に腹がすわっていないだけなのだ。
他人にあれこれ言われて自分が揺らぎ、無意識のうちに自分の作品が汚れること、いやそれ以上に作れなくなるかもしれないことが怖いのだ。

みんなに出来ることが自分には出来ない。
それは天は二物を与えない結果であり、責められることではないのだが(みんなに出来ないことができる者はその代償としてみんなが出来ることが出来なくなる)、やはり苦しいものだ。
でもって、現実問題として責められるしな、これが。「まあまあなのに」出来ないの?とか言われるんだ。これが。
ラーメンズはコバケン1人が背負い込みすぎた。彼の限界がそのままラーメンズの限界になってしまった。

テレビに出ているからといって、人間的に立派であるわけではないし、技量があるわけでもない。営業という観点からは無視できない大きな力を持つが、表現手段としてはテレビは1つの選択肢にすぎない。
しかし、あえて上から目線でものを言わせてもらうと、こうなってしまった以上、彼はいつかはテレビと対決しなければならないと思う。
前回、ラーメンズの作品の気になる点として、完結しすぎていることを挙げた。
コバケンは自分のことを本当によく理解している。
彼が演じるいくつかのキャラクターは全て同一人物の一側面である。自分を分析し、要素に分け、それを延長して作品に結晶させる。観る者は糸をたぐってゆけばよい。それだけ。糸は全て小林賢太郎にたどり着く。
そしてそれこそが問題なのだ。
だって、ふつーの人は、赤の他人になんかキョーミないからだ。彼は究極的に、自分のためだけに作品を作っているのだ。彼の作品は全てコバケンでありすぎるのだ。

表現者ならば、自分の作品がより多くの人に受け入れられることを望むはず。おそらく彼自身が、これを問題点として把握していると思う。彼はよく理解している人だから。
ただ、理解はしているが、対処方法は見つからない。鍵は束で持っているが、開ける扉がないのだ。

扉は外側を見つめて初めて見つかるものだ。内側ばかり見ていても見つからない。
そのために、やはりテレビとは何らかの形で対決しなければならないと思うのだ。
見栄とか営業のためではなく、表現のために。
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by k_penguin | 2005-09-27 23:45 | エンタ系 | Comments(0)  

『LENS』-『百色眼鏡』

椎名林檎が原案の短編映像作品『百色眼鏡』に小林賢太郎が俳優として出演。
その設定を元にしてついでに椎名林檎の音楽を使わせてもらって小林賢太郎が作った舞台が『LENS』。
両方オープニングCGがきれいだ。いいなあ。

『LENS』を先に見たおかげで『百色眼鏡』が理解しやすかった。
つーのは、『百色眼鏡』を見た人みんなが持つはずの疑問、「で、結局天城に依頼された仕事って何だったわけ?」が『LENS』で後付けされた、あれは怪奇現象を捜査する特別捜査課であるという設定のおかげで私はスルーできたのだ。
ゆーれい相手じゃ、仕事はあって無きがごとく。出来なくってもしらばっくれときゃいいし。この設定、『百色眼鏡』に取り入れれば良かったのに。
と、いうわけで『百色眼鏡』のテーマは、恋する女は相手の望むものに姿を変える、ってことで、ひとつよしなに。テーマ自体に俺興味ないし。
コバケンは通常の3倍かっこよく撮られていた。カメラさんGJ。息吐くシーン良かったよ。
ただ、コバケンがコバケン以外の何者でもなかったのが難点。

『LENS』は最初見たとき、なんつーか、制作動機がよく判らなかったが、『百色眼鏡』を見て了解。こりゃ補完したくもなるわ。パーツが良いだけにな。
本人が劇中で認めているが、最後のツメが甘いと思った。
天城が人間ではない、という設定はNGだったのだろうか。林檎的に。そうするのが1番良いと思ったが。
でもこのシリーズ続ける気ならその設定まずいよな。
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by k_penguin | 2005-09-23 22:57 | エンタ系 | Trackback(1) | Comments(0)  

ラーメンズ(その2) 自由って難しい

連休中、ラーメンズの前半の5枚のDVD(DVD-BOX1,オンエアバトル)にすっかりはまっていた俺様がやってきましたよ。

ラーメンズのどこが好きかと言えば、何者でもない自由だった頃を思い起こさせる感じが好きだ。そんな私が、初期の名作『零の箱式』の中で最も好きなのは、実は「釣りの朝」なのだ。コバケン(小林賢太郎。彼が脚本を書き、演出もしている)は2つの世界を行き来することで、どちらにも所属しない自由な感じを出すことが多いのだが、「釣りの朝」はその、「どちらでもない何か感」を上手にすくい取っていると思うからだ。

最初にギリジン(片桐仁。織田裕二とCM頻出中)が、自分の歌う歌でコバケンが目覚めてしまったのに気が付いて「あ、ごめんね。寝てて良いから。」と言いつつも、歌を止めずに淡々と歌い続ける。
これを見たとき、ギリジンは女性という設定で演じているのかと思った。このような無神経さは女性のものだからだ。
その後も、アルミホイルを出して貰い、お礼の言葉の代わりにあきれたように「細かい」と感想を言うところや、「フィレオフィッシュを僕に買って『こさせる』。」というところなど、女性であるようなセリフが続く。
しかし、その一方でギリジンはバス釣りに出かけようとしているのであり、一人称は「僕」であり、釣り仲間に対しては完全に男性として電話をしている。
「?」が積み重なったころ、コバケンの一言で疑問は全て氷解する。
「お前は、俺の恋人だろうが。」
ギリジンはいわば男と女の中間という設定だったのだ。最初から台詞は計算されていたのだ。
そうと知って改めてこの作品を見てみると、時間は夜でもなく朝でもない「まずめ時」。
ギリジンはコバケンを釣りに連れ出そうとしているが、結局逆に釣られる。
ギリジンの歌う不条理な魚の3倍ゲームの歌が普通の部屋をどこでもない空間にあっという間に変え、とりとめのない魚のようなそうでないような話をするうちに、2人は人と人でないものの中間にいる様相さえ帯びる(普通、人は同性を恋人にはしない)。
自分が何者かを考えずにただ自分でいられる幸せな瞬間を見事に切り取っていると思う。

で、この「釣りの朝」と同じテーマをより深化させたのが『鯨』の中の「絵かき歌」、そしてそれにつながる「count」だ。
「絵かき歌」もギリジンの単調な歌から始まるが、ここでは「釣りの朝」と違い、部屋の中と外がはっきりと対立する2つの世界として描かれている。
コバケンとギリジンは人間の姿をしてはいるが、実は鯨であり、明日、鯨の姿に戻らなければならない。部屋の外の人間の社会では2人はそれぞれ別の「人格」を装っている(そういえば「釣りの朝」でもギリジンは「外」の釣り仲間に対しては男性として振舞っている)。絵かき歌の絵でいっぱいの部屋の中では2人は親子。鯨の。
なぜ鯨なのか。それは鯨が魚の形をしているが魚ではないからだ。
何者かであることを強いる社会がここでは出てきているが、コバケンはまだ幸せだ。
「北大西洋の暗くて冷たい、海。」が自分の本来の場所であり、そこに2人でまた戻れるからだ。
ドアの外から部屋の中に向かって、にやっと笑って言う最後の台詞、「チョー受ける。」が心地よい。

「日常の中の異常。異常の中の日常。」高橋幸宏がラーメンズを評した言葉だ。
2つの世界を行き来することにより、何者からも自由でいる。
それは理想であり、実現は不可能だ。断言しても良いが破綻が待っている。
だからこそ、まるで美化された思い出のような雰囲気すら持つシンプルな舞台。
これこそがラーメンズが後半よりも前半の方の評価が高い所以ではないかと思う。


ラーメンズ後半戦におけるコバケンの戦いについてはまた後ほど。DVD-BOX2まだ買ってないし。
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by k_penguin | 2005-09-20 02:57 | エンタ系 | Comments(0)  

ラーメンズ(その1) Stage or TV?

以前新聞で昨今のお笑いブームについてのコメントを読んだら、舞台中心のお笑いとしてラーメンズがあげられていた。それをきっかけに、最近ラーメンズのビデオを立て続けに見ている。

ラーメンズは何年か前のオンエアバトルで知った。そのころのオンエアバトルは面白かったのでよく見ていた。
そのときのチャンピオン大会で230キロバトルほどしか取れなかったラーメンズのネタに俺は大爆笑した(チャンピオン大会はチャレンジャー全員のネタがオンエアされる)。
なぜあのネタの評価が低かったのかまるでわからず、それから何となくあまりオンエアバトルは見なくなった。ラーメンズもそれからオンエアバトルに出ていなかったような気がする。

今回舞台のビデオを何本か見て、なんとなく、あのときのネタが受けなかった理由がわかったような気がした。
そのネタは、友人の家にビデオを返しに来た男と友人が、交互に突発的にいろいろな映画の形態模写や即興芝居をしていくというもので、小道具をまったく、それこそビデオテープ1本も使わずにやっていた。
2人の映画バカが生息するピデオが山積みになった下宿部屋の情景がすぐさま頭に浮かんだ俺は勝ち組で、腹を抱えて笑ったが、その情景を思いつかなかった人はまるっきり訳のわからないままであったと思う。
テレビというのは、どうしても時間が細分化されるし、何というか、全体的にざわついていて、集中しづらい。わからないものはそのまま放置されてしまう傾向にある。情報は始めに全て与えておかなければ理解されない。
そのような中でネタをやるには、あらかじめ下宿部屋だとわかる最低限のセットは必要だったかもしれない。
しかし、それではやっぱり面白くないと俺は思うのだ。
何もない中で、2人の映画バカを想像し、その上で2人がやっている映画にありがちな即興芝居のシーンも想像する。情景と、登場人物の頭の中と、2重の想像をするところが面白かったのだ。

ラーメンズはボケとツッコミが固定されていないし、舞台も簡素なものが多い。見る側の作業量がどうしても増える。5分の持ち時間のテレビには向いていないと言えるだろう。
ただ、見る側の作業量は多いけれど、手際よく整理されているから負担にはならない。理解するうえで必要な情報が的確なタイミングで与えられている。
高い技量の持主と言うことだ。ちっ、うらやますぃ。

テレビだろうが、舞台だろうが、俺のように、見てるだけの側からすりゃ、笑えりゃ何でもいい。テレビ向きのお笑いだけがお笑いじゃない。強いてテレビに出る必要はない。ピタゴラスイッチに出てるしな。
でも、何だろう、これでいいのかなって気もする。
完結しすぎている。そういう印象がある。
なんか外部の者をはじくような、コントという枠の必要十分条件さえ満たしていれば、後は何やろうと勝手だろって言ってるような・・・。
まあこれは単なる印象の問題なんだけど、やり方変えれば、もっと何か別のものが出てくるような、いやそんなこともないような・・・。

まあそんな欲張ることもないか。
見てるだけの側からすりゃ、笑えりゃ何でもいいんだからねえ。
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by k_penguin | 2005-08-22 03:59 | エンタ系 | Comments(0)