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婚外子の相続分規定違憲判決(最大判平成25年9月4日)

出るべくして出た判決であるが、問題も含む判決である。
非嫡出子(婚外子)の相続分が嫡出子の半分という民法900条4号ただし書きについては、以前から平等原則違反であるという見解が学説の主流になっており、その点では「違憲判断が遅すぎた」と文句をたれることも可能なのであるが、違憲判断をずっと控えてきたのにはそれなりの理由もある。
pdfで20ページあるこの判決のうちの約半分が平等原則違反について論じたものであるが、残り半分は、
 この違憲判決が出ても、婚外子の相続分を半分として処理済みになった今まで(平成13年7月以降)の紛争の効力は覆らないよ。
ということをずっと言ってるのだ。
この判決の扱う事件が、平成13年7月に相続があった事例であるため、民900条4号ただし書きが無効と判断されたのは、その時点である。それから今まで、無効のはずの規定に従って処理された相続は数多いであろうし、今だって民900条4号ただし書きは一応生きている。
それらの事件の処理をどうするのか、ということについて、何のガイドラインもないのだ。
立法で民900条4号ただし書きを処理していれば、こういう問題は起こらないので、できれば法改正で穏便に対処してもらいたかったのだろう。
しかし、安倍政権の元では法改正は望み薄なので、ついに強硬手段に出たわけだ。
議院定数不均衡も立法府ががちゃがちゃモメるだけで話をまとめようとしないから違憲判決が連発され、中には違憲無効判決まで出ているし、どうも立法府の無策が目立つ。
ついでに言えば、薬事法のネット販売規制だって、判決中で立法過程における議論がはっきりしてないことが指摘されていて、どうも政治部門の空騒ぎに最高裁は眉をひそめているご様子なのだ。

個別的効力説を採ったとしても、法令違憲判決は消極的立法作用の面が否定できない。婚外子が絡む相続というたくさんある事例に関わる法律はなるべく法令違憲は使いたくなかったのだろう。
今回だって、千葉勝美裁判官補足意見は
本件遡及効の判示は,いわゆる傍論(obiter dictum)ではなく,判旨(ratio decidendi)として扱うべきものである。

と言って、かなり強い調子で法的安定性を強調し、紛争の蒸し返しを防止しようとしている。

  とか言ってもねえ・・・。もっと取れるかもしれないとなったら、ラテン語で何言われよーが、みんな蒸し返すよね・・・。


平等原則違反については、さしていうことは無い。
法律婚の尊重という立法目的は正当であるが、目的達成手段としては、個人が尊重されるようになった現代においては最早合理性は認められない、という論法で、つまり、「本妻」と「妾」は法律婚の制度をとる以上相続分で差別しても良いけど、最早、「本妻の子供」と「妾の子供」で差別すべきではない、ひらたく言って、親の揉め事に子供を巻き込むんじゃない。ということだ。
 浮気の奨励であるとか、本妻をないがしろに!とか、おきまりの文句がネットに出回るだろうが、そういうこと書いてる方も流れ作業でやってるだけだと思う。
別に本気で、「妾の子の相続分が増えるから浮気しよう」っつー亭主がいるとか思う奴いねえし、民900条4号ただし書きを守ること自体が法律婚の尊重という目的と離れ、手段が目的化して政治の道具となっているだけだ。
 ただし、判例が変更された以上、今までとは考え方が変わったことも確かで、それは、法律婚という形の家族共同体と、事実婚としての家族共同体の差異が無くなってきている、ということだろう(岡部喜代子裁判官補足意見参照)。
法律婚自体は今も偉いけど、最早、非法律婚により形成された共同体に生まれた子供の権利を当然に制限するほどには偉くはないのだ。
男女のつながりの方式(結婚とか)と、それにより形成される共同体を別個に考える、ということが、今回の判決の言う「個人の尊重」なのだろうと思う。
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by k_penguin | 2013-09-05 20:43 | 裁判(判決評) | Trackback | Comments(0)

『バウドリーノ 上・下』

夏休みの読書として、ウンベルト・エーコの新作(と言っても出たのはかなり前)を選んだ。

エーコは一般的には『薔薇の名前』の作者として知られていて、知的サスペンスものの作家と思う人もいるかもしれないが、記号論の学者であって、むしろ「あの(くそ難しい文章の)エーコが推理小説を書いた!しかも大ヒットてw」という印象だった。
だから彼の作品は、自分としては推理小説だとは思っておらず、記号論の実験小説だと思っている。
記号論とは、簡単にいうと、表現するものと表現されるものとの関係の研究である。
『薔薇の名前』でバスカビルのウィリアムが言った言葉に、たしか、
真実は虚構に影響を与え、虚構は真実に影響を与える。
といったものがあって、この言葉の後半部分、つまり虚構が真実に影響を与える部分が記号論である。
もっとも、今のこの部分を書くために、「薔薇の名前」を読み返してみたのだが、どうしてもこれに相当する部分を見つけることができなかった。

『バウドリーノ』においては、語り手のバウドリーノが最初から自分を嘘つきであると言い切ることで、この、虚構が真実に影響を与えることが作品のテーマに据えられている。
と同時に、歴史小説の面とファンタジーの面と、下巻に入れば推理小説の面も持ち合わせる盛りだくさんの小説である。
もっとも、「虚構が真実に影響を与える」という作品の因果律を心得ていれば、推理小説の謎はあっさり解けてしまうから、あまり面白くはない。要するに、考えすぎたあまり単純な事実を複雑化してしまうというオチなんだろーなー。と、予測できるからだ(『薔薇の名前』もそうだし)。
 
また、この話は西欧的な構造とテーマを持っている。バウドリーノは嘘つきである自分を自嘲し、神とは何かにこだわり、世界の構造にこだわる。
神やイエスに関する様々な学説が登場し、でもどんなに東の最果ての地まで行っても、原住民の信仰には必ずイエスが登場して、仏陀とかは登場しない。
日本人の自分としては「別にどーでもいーじゃんよ」という悩みに見える。
いや、神にこだわるのはまだわかる。神は権力の正当化の淵源であって、神聖ローマ皇帝フリードリヒの権力を正当化してあげるために、バウドリーノは司祭ヨハネの王国という自分で作り出した嘘の国を探すことになったのだから。権力には力だけではなく、正当性も必要なのだ。
しかし、これまた日本人としては、「正当性ほしけりゃ京の帝に一筆書いてもらえばいーじゃん」程度のもんで、京都の帝に一筆もらえなかったからっつって、どっか遠い外国に「帝」が居れば都合が良いのに、とかは考えない。
そう思うと、「天皇家」以外に正当性の淵源を求めることを自然と避けてきた日本は、やはり表徴の帝国であって、記号的に正しかった、というか、大規模な戦争が嫌いだったのかもしれない。正当性が2つ以上あると、ジェノサイドは避けられないからね。

そして、この物語は、バウドリーノがニケタスに語り、さらにそれがパフヌティウスに語られるという三重構造をとっている(エーコも入れれば四重構造)。
そして、語り部が語るとき、そこには必ず語り部によって嘘が含められる、ということがこの物語の因果律である。
どの部分が誰による嘘なのか。パフヌティウスがフリードリヒ殺人事件の真相を解いたことはどう影響するのか。
そう思うと、まじめに取り組むほどはぐらかされる様な気分になってくる。

そんなわけで、一般日本人読者としては、この話はむしろなーんも考えんと、
バウドリーノという、ついた嘘がなぜか真実になってしまう男の人生の物語として楽しむのが正解なんじゃないかなー、と思う。それだけでも十分楽しめるし。
神とか世界とか、よくわかんないけど、自分の生活が守れるんなら嘘でもよくね?
でも、さらに考えてみれば、
そう思う人たちのためにバウドリーノは嘘をついてきたんだよね。彼の嘘は他人を喜ばせるための嘘が多いから。
バウドリーノは最後、真実の愛のために帰らぬ旅に出る。男が生きて行くには、やっぱり真実が必要なのか、それとも、「真実」という名のロマンが必要なのか。

考えれば考えるほど謎めくけど、考えなくてもオケな万能タイプの物語。
関係ないけど、雌牛のロジーナの存在感が良かった。


バウドリーノ(上)
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by k_penguin | 2013-09-02 00:03 | エンタ系 | Trackback | Comments(0)