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『うるう』02 むしろ違う話

前回のつづき。
2点を読み替えて、「うるう」を再構成する。
別の話という位置づけにしたいので、名前は流用しない。
まだうるうを観てない方は読まないほうが良いかも。

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by k_penguin | 2011-12-23 20:00 | エンタ系 | Trackback | Comments(49)  

小林賢太郎演劇作品『うるう』

小林賢太郎の舞台は、始まるまでほとんど情報が与えられないのが常だ。どういう感じの作品なのかも分からないまま、ということも多い。
しかし今回はある程度のことが予想できた。
『THE SPOT』の「うるう人」の設定を使うらしいこと。徳澤青弦のチェロとの二人舞台であること。「ひとりになりたがるくせに寂しがるんだね。」というコピー。
 と、くれば、まあ、こんな感じだろう。

美しくて寂しくてついでに切ないような感じでほろり。クスリもあるよ!

で、結論から言えば、予想通りだった。
そーゆー系が大好物、という方は喜べるかと思う。
ただし、「大好物」でなければならない。ストーリー上の多少の疑問点をハードル競争みたいに飛び越えながら雰囲気に流されるように見なければならないからだ。
単に「そーゆーのも嫌いじゃない」とか「やぶさかではない」とか、その程度では、つっかかってしまう危険がある。

東京グローブ座の初日で、全公演の初日だったので、舞台の雰囲気はまだざっくりしていたし、ギャグも予想できるものが多かった。
でもこの辺は回数重ねればなんとかなるだろう。

と、いうわけで、普通のレヴューはここでおしまい。
次に、話が腑に落ちなくて気になる、とか、もっと泣きたい、という方のために多少つっこんだ話。

いきなり容赦ないネタバレするからね。
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by k_penguin | 2011-12-22 22:25 | エンタ系2(ライブレビュー) | Trackback | Comments(104)  

「ぬぐ絵画 -日本のヌード 1880-1945」 展

裸で公園を歩くとお巡りさんに捕まっちゃうのに、どうして裸の彫刻はいいんだろう?

そんな疑問を感じたことがある方、例えば俺、なんかにはお勧めの、東京国立近代美術館、渾身の企画
はだかの人物を美術作品として描き表し、それを公の場で鑑賞するという風習は、実はフランス、イタリア経由の「異文化」として、明治の半ば、日本に入って来たものでした。以後、これが昭和初頭に定着するまで、はだかと絵画をめぐって、描く人(画家)、見る人(鑑賞者)、取り締まる人(警察)の間に多くの葛藤が生じることになりました。(紹介文から)

と、いうわけで、裸をどう受け止めるか、についてのいろんな考え方が示されている。
客のおっさん率が高い。
21世紀は裸を見るために美術館に来る人が居る時代じゃないと思ってたんだが、そうでもないのか?

所蔵作品展も含め、そうそうたるメンバーの裸婦像がそろっているが、絵画だけでなく、それが展示されたときの新聞記事や、雑誌に掲載された画家の本音っぽい言葉もとても興味深い。
「裸は芸術だもん!やらしー眼でみないで!」という思想を定着させようとした黒田清輝のがんばり、そしてそのがんばりを一蹴する「いや、裸は裸じゃんw」という一般大衆の常識感覚。
確かに人間の肉体は描くのに技術が必要であり、裸を極めることは芸術を極めることの1つのあり方ではあった。
しかし、だからといって「やらしくない」かというと、それは別の話だ。黒田清輝が導入した考えは西洋の「イデア」的な考えに似ていて、日本には最初から馴染みにくいところはあったのだろう。
画家の側でもすぐに裸の「エロス」の表現に興味を持ち出す。だって裸だもん。
その後も、立体としても裸や、お仕事としての裸婦像(この説明があると、安井曽太郎の画は断然面白くなる)、そして、命が消えた裸(熊谷守一がこんな画を描いていたとは知らなかった。この絵が目当ての人も結構いると見たが)。
いろんな裸、そして裸の見方が提示される。

絵の見方があらかじめ設定されているので、見るのがとても楽。
美術館はプロ又はプロを目指す人が勉強する場という概念を捨てて、「絵を見る」ということに焦点をあてた点が面白かった。企画の勝利。
所蔵作品展も併せると結構量があってしんどいが、所蔵作品にも大物がごろごろ居るので見といた方が良いと思う。
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by k_penguin | 2011-12-18 23:00 | エンタ系 | Trackback | Comments(6)  

東スポ芸能(tospo_mobile)のツイートより

東スポ芸能 tospo_mobile
ドコモiPhone参入を否定された日経について「東スポ並み」とか言われ複雑。うちなら「ドコモ iPhone獲得のため霊媒師使いジョブズ氏と会談」ですよ



おまけ(記事とは関係ない)
以前に拾った画像
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これは亀甲縛りではないんだそうです。
2ちゃんで誰かが、誰も頼んでないのにそう解説してくれました。
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by k_penguin | 2011-12-02 18:49 | 拾いもの | Comments(0)  

あさのあつこで小林さんを読む

あさのあつこのことは『バッテリー』とか書いた作家ってことくらいしか知らない。
だからあさのあつこが書いた朝日新聞11月14日夕刊「こころ」のページのコラム「生きるレッスン」の文章に目がとまったのは、ひとえにその冒頭の文に目が引かれたからだ。
 一人でいるのがとても辛(つら)いくせに、他人が疎ましくてならない。

おやおや『うるう』のキャッチコピーとそっくりではないか。その続きは?
そんな時期が、わりに長くつづいた。十代の後半から、二十代にかけての頃だったと思う(今でも、 ちょっと残っています)

俺はそのコラムを読んだ。それから記事を切り抜いてその後2週間のうちに何度か目を通した。
何故、「十代の後半から、二十代にかけて」言うことを、もう40になろうというおっさんがぬけぬけと言っているのか。何故ぬけぬけと言わざるをえないのか。
俺はそれが知りたかったのだ。

「孤独を楽しむ」と題されたこのコラムは「こころ」のページとして優等生的なコラムだった。
「一人でいるのがとても辛いくせに、他人が疎ましくてならない」自分を
「覚悟がなかったのだなと、思う。」と、すっぱり斬っている。
そう、たしかに小林さんの作品に出てくる人たちには覚悟がない。『TAKE OFF』の3人も、『TRIUMPH』の夏歩香も、『ロールシャッハ』の4人も、みな覚悟がなく、ただ好き嫌いと話の成り行きにそって生きている。
『THE SPOT』うるう人が失恋したのも、一人で恋愛気分に浸っている間に相手の方が、生き方の覚悟を決めてしまったからに過ぎない。

では、「覚悟」はどのようにして身に付くものなのか。
それについてのコラムの答えは意外なことに、
孤独を楽しむこと、だった。
「人と群れているとき、曖昧にしてしまう自分という存在」を、孤独のなかで自分と向かい合い自分自身を明確にとらえることで、「誰かと本気で繋がっていける。」。

これは一見妙だった。
あの小林さんに自分と向き合う時間が足りないとは思えなかったから。
しかしまた納得する部分もあった。
彼の作品は、確かに掘り下げが足りないのだ。
最初から「余る」ように運命づけられているという「うるう人」の設定にせよ、さしたる理由ぬきで「向いてないんですよ」で処理される「丸の人」にせよ、主人公はそういう存在だから、という当然のような決めつけでそれ以上の掘り下げがなされていない。
そして小林さんの文にはときどき主語が混乱したり主語が行方不明になる、という癖がある。たしかに彼は他人にものを主張できるほどには自分を把握していないのだ。

「臆病であったり、狡猾であったり、卑小であったり、決して美しいばかりではない。でも、自分だ。」
あさのあつこはそう書き、
「孤独であること、一人であること、一人でいることから目を背けないで欲しい。」
と、書いている。
まことにごもっともその通り、とは思うのだが。
しかし。
目を背けないことが難しい特別な事情がある場合もある、かもしれない。
そんなことを俺は思った。


臆病、狡猾、卑小。そのレベルならまだいい。でも、もっと恐ろしいものが潜んでいたら。
もっと見たくないもの、認めたくない恐ろしいものを自分の中に感じてしまったら。
それでもなお孤独を楽しめと言えるだろうか。
俺がこのコラムを優等生的と評する由縁だ。
世の中にはいろんな人がいるのだ。

・・・とは言っても客からすれば、
もっと掘ってもらいたい、というのも正直なところだし。
やはり小林さんにはもう少し頑張って方法を探してもらいたい、
と、客として無責任に思う俺なのだった。

それに、もしかしたら、
見たくないがゆえに勝手に恐ろしいと思いこんでしまっている面もあるかも知れないしね。

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by k_penguin | 2011-12-01 00:01 | エンタ系 | Trackback | Comments(13)