ペンギンはブログを見ない

法律事務所勤務。現代アート、NHK教育幼児番組、お笑いが好きな50代。
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『THE SPOT』intermission 震災と小林さん
3月の震災によって延期されていた6月の公演のうち、23日に行われる予定の最後の2公演が、小林さんの左手首の炎症の悪化によって中止になった。
今後の予定はまだ発表されていないが、払い戻しの可能性は低いと考えている。

そんなわけで東京千秋楽を見そびれている今の俺だが、その俺が興味を持っているテーマは、
3月の東日本大震災はどのような影響を小林さんに与えたか、だ。
震災以後の『THE SPOT』については、聞いた話の範囲でしか知らないが、余り変化はないようだ。
震災以前に作られた作品だから予想外のアクシデントは反映しにくいのかも知れない。
今のところ、震災の影響はHPの公式コメントなどを通じて推測するしかない。

震災当時、俺としては小林さんが、
全く何事もなかったかのように振る舞ってくれればいいなあ、と思っていた。
平常時にも大荷物抱えて綱渡りしているような状態の方なので、外界の変化が内面に影響すると、あまり芳しいことにはならない予感がするからだ。
震災による公演の中止なんか、
 僕はやりたいんですが、諸般の事情で中止とせざるを得ませんでした、残念です。
くらいに書いておいて、後はスタッフに任せて、東北の情報とか一切入れないで、余震でモニターが倒れると文句を言いながらアトリエに引っ込んでおけばいいのに。
まるで兵士として戦争の前線にいる最中にも日記には形而上学的にことばかり記して戦況に触れなかったヴィトゲンシュタインのように、外界なんぞ歯牙もかけずに振る舞ってくれればいいなあ、
そんなことを俺は考えた。

でも、小林さんはヴィトゲンシュタインよりまともな人だった。
千葉のコンビナート火災が空を赤く染めるのを対岸の劇場から眺め、テレビで観る光景に心を痛め、そしてその結果
今後のライブに関して、僕は葛藤しています。
「こんなときに」という思いと、
「こんなときだからこそ」という思い。
僕がやるべきことは何だろう。
僕にしかできないことは何だろう。
表現者として、
人間として、
慎重に考えています。
 (3月14日メッセージより引用)

やはり新しい葛藤を抱え込んでしまった。

震災を契機に、多くの表現者が、「自分は何のために表現しているのか」を社会との関係で問い直すことを迫られたのだが、
そもそもライブポツネン自体が、「誰のために何を表現するのか」という問いかけを軸としたものである。
そして『THE SPOT』では「テーマはない」と開き直っている(詳しくは 『小林賢太郎テレビ 1・2』 (DVD)の記事)。
しかし「ない」では震災は乗り越えられない。残念ながらそこまで彼はわがままじゃないのだ。

この点、大阪公演終了後のコメントで彼は面白いことを言っている。
これから僕の舞台、
またはその他のエンターテインメントに行くことに
後ろめたさを感じていらっしゃる方に、
僕からのメッセージです。

悲しいニュースは事実としてしっかり受け止めましょう。
知ることはとても大切なこと。
ただし被災していない人が疑似被災してはいけません。
前に進める人は立ち止まらずに、どんどん歩き出しましょう。
日本はこれから大きく復興しなくてはなりません。
自粛もひとつの考え方だと思いますが、
経済活動を止めないことはもっと大事です。
日本が本当に元に戻るには何年もかかります。
では、いつどのタイミングで自粛をやめるのでしょう。
元気な人が元気に過ごすことは絶対に正しいこと。
働ける人が休んじゃもともこもない。
日本の経済をどんどん動かしましょう。
僕はそう信じて、
いつもと変わらず、
食べて、飲んで、旅をして、
舞台に立ち続けます。

劇場に募金箱を用意しました。
ご協力よろしくお願いします。
それ以外にも、どんなかたちでもかまいません、
同じ時間を生きる者どうし、
協力して乗り越えましょう。

劇場でお待ちしております。

小林賢太郎
 (4月6日メッセージより引用)

要領を得ない文章だ。
劇場に行くのは悪いことじゃないよというメッセージのつもりで書き出したのだろうが、肝心の結論が無く、かわりに、僕頑張るよ的な自分に向けた締めくくりになってしまっている。
他にもツッコミどころは多いのだが、この当時、自粛より消費活動のほうが復興につながるという意見はよく耳にしたので、このメッセージも何となくそういうものの一種なんだろうな、と、漠然と処理してしまわれたようだ。
しかし俺が気になったのはそういうことではない。
「経済を動かす」という言葉をつなぎとして「消費活動」と「働く」ということが同義として用いられていることだ。

働くことは消費を伴うが、ふつーこの2つは違うものと考えられている。稼ぎが消費を上回らなければいけないからだ。
しかし、この文章からすれば、消費の方に価値が置かれている。だから「食べて、飲んで、旅を」することと「舞台に立」つことが全く並列に並べられる。
舞台は労働だから価値があるのではなく、何か精神的な利益を与えられるから価値があるのでもなく、「経済活動」であるから社会的な価値があるのだ。
このリクツからすれば観劇も経済活動である以上、働くことであって娯楽ではないことになり、これがお客さんの立場と働く人の立場を混在させる結果をまねいている。

このリクツで彼は自分の表現に社会的価値を与え、震災後の西日本を乗り切った(この理論が妥当するのは西日本だけだ)。
残る東日本は勢いで乗り切るとして、今後どうするのか。

このような状況で、2公演残して突如休暇が入る(しかもフェータルな怪我ではなく寝たきり状態ではない)というのは、彼にとってはモラトリアムが与えられたことになり、ラッキーであると俺は思う。
今の仕事を残した状態で他の仕事に関わることもできつつ休める、
というとこがポイントね。

『THE SPOT』の医者話や象のシルエットなどからすれば、
物の見方を変えることにより、価値のないものを価値のあるものに転換させることができるようだ。
震災後、彼はこのチャンスになんらかの価値の転換ができるのであろうか。
ま、お手並み拝見といったとこ。
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by k_penguin | 2011-06-26 13:59 | エンタ系 | Trackback | Comments(10)
『若き志願囚』(復刻版)
判例時報の裏表紙の広告には
深い人間愛によって貫かれている我が国の行刑の実状を、終戦直後の体験を通して赤裸々に綴る。

ってあるけど、あんまり気にしないで読んで良い。
ふつーに面白いから。

1949年(昭和24年)、京大法学部3年生の森下忠くんは、「刑法を学び刑罰を論ぜんとする者は、常に行刑のなんたるかを深く考えねばならない。」というわけで、身をもって囚人体験してみることを決意した。
…えー、現代語訳すると、刑法や刑事訴訟法をちゃんと理解したいなら自分で刑務所を体験してみなくちゃなんじゃね?
と、思ったわけね(行刑とは身体の自由の剥奪を内容とする刑罰の執行)。
まっとうな考えではあるが、ふつーは絶対しない考えでもある。

要はフィールドワークなわけだが、やる以上は身分を周りに明かさず、囚人になりきってやってみたい。
森下くんは検察官と大阪刑務所所長の力を借りて、偽囚人となりきって、10日間ムショ暮らしをしてきたのだ。
偽とばれたら同房者に何をされるか分からない。
スリル満点の10日間。

と、いうわけで、
この本には刑罰を執行されている犯罪者の方々がたくさん出てくる。
みんな割とふつーの人だ。
ふつーじゃないけどふつーだ。
どういうことかというと、ふつーの人が自分の意に反して拘禁され、娯楽も嗜好品も取り上げられるというふつーじゃない状態になったら、ふつーこうなるんじゃなかろうか、
という想像の範囲内におさまるということだ。
終戦直後という時代のギャップすら余り感じさせない。
1番時代を感じさせたキャラが、
刑務所どころか留置場や拘置所も体験し、忙しさの余り司法試験の願書を出すのを忘れ、暇になってしまったので少年刑務所にボランティア職員として参加した。
というのほほんとした森下君その人だった。

このての体験記としては、以前、花輪和一の『刑務所の中』というマンガを読んでいたが、
時代が変わり刑務所の設備は変わったかも知れないけど、中の面々は余り変わらないという気がする。

ただ本の印象は『刑務所の中』とは大きく異なる。
それは作者の姿勢の違いにある。

淡々と観察者に徹した花輪和一に対し、熱き青年森下君は、いろいろなことにいちいち感心し、不平を言い、義憤に駆られたりあっけにとられたりする。
矯正に関わる職員側の描写ができるのも、森下君ならではだ。
花輪和一は矯正ということに興味はない。反省する気は毛頭ないからだ。
自分のコレクションが銃刀法違反にひっかかっただけで、誰に迷惑をかけたというようなものではないから、まあ仕方がない。花輪和一のことだからコレクションは命に等しい価値を持っているだろう。

一方森下君は、いかに犯罪者を社会に戻すか、ということに興味を待っている。
62年後、森下教授は回顧して
当時、私の心の底には、太平洋戦争で戦死した多くの学友や同胞のことに思いをはせつつ、「生き残った者は、平和のために何かをしなければならない。」という強い気持ちがあったのです。

と、序文に書いている。
そのような観点から見ると、受け入れる社会の側の問題や、矯正って、人が人と対峙するしか方法がないんだな、じゃあ今は絶対人材が足りてないよな、とか、いろいろ深く考えることもあるんだけど、
そういうこと今ここに書いても説得力無さそうだから止めとく。

とにかく、読みやすくて面白いので気軽にお勧めできる。
刑事法に興味を持ってる人には特にお勧めしとこうかな。


・・・ところで、この本に「豆ぞうり(ゲソ)」という物が紹介されている。
いつから始まったのかは知らないが、刑務所には豆ぞうり(ゲソといわれている)作りの秘伝が伝わっている。二本の縫い針を左手の親指と人差し指とではさみ、普通のぞうりと同じ要領で編むのだ。
(中略)
熟練すると、米粒よりも小さいのを見事に作る。もちろん、鼻緒も-ときには三色あやなして織ったのもある-ちゃんとりっぱについている。
(中略)
「これを持っていると、早く釈放になる」「事件をふんでも、つかまらない」「女の人が持てば、安産のお守」「商人がもてば、商売繁昌で金がジャンジャンころがり込む」などと、昔からありがたいいわれのある、霊験あらたかなお守なのである。
(中略)
 それを彼らは、釈放のときたくみにかくして持って出る。このように苦心惨憺して作り、やっとシャバに持ち出した豆ぞうりにして、初めてお守としての御利益がある。
(中略)
このように豆ぞうりは、刑務所という特殊の世界、独特の囚人心理の産物だ。禁止されればされるほど、彼らは熱中する。それでいて、いったん釈放されると、どんなに金を出すといわれても、決して作る気にはなれないそうだ。見つかれば懲罰だと知りながら、やるせない心のはけ口を求めて、一心不乱に針をはこぶ彼らの気持ちは、皆さんにもわかっていただけるでしょうか。

引用が長くなったが、豆ぞうりの魅力が伝わったであろうか。
これを読んだ俺は是非その豆ぞうりとやらを一目見たいと思ったのだが、きっと一生見る機会はないであろうと諦めていた。
ところが本を読んだ数日後、パウル・クレー展にいくため北の丸公園を歩いていて、偶然、「第53回全国矯正展 全国刑務所作業製品展示即売会」というやつに行き当たった。
ぶらっと立ち寄り、眺めていたら、
なんと豆ぞうりが資料として展示されているではないか!
c0030037_5522583.jpg

c0030037_5522039.jpg

本当に米粒より小さい。

いやー、ラッキーだった。クレー展に竹橋から行かなくて良かった。
それにしても、展示物が古すぎる。大正から昭和30年代だもの。せっかくの豆ぞうりが色あせちゃったじゃないか。
やっぱり行刑密行主義は完全には改まっていないのだなあ。



若き志願囚
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by k_penguin | 2011-06-05 06:05 | エンタ系 | Trackback | Comments(2)


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