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医者の話は『SPOT』から最も大きく変わった話だ。
まず、『SPOT』の方のあらすじ。
効果音とマイムでつづる話。一種のサウンドノベル。
最初の患者は何でもかじってしまう小人みたいにちっちゃい奴(マイムだから姿は分からない)
次はお腹が痛い恐竜。原因を探るため、お医者さんみずから恐竜の中に入る。
 懐中電灯を胃の中に忘れてくる。なぜかそこには最初の患者がいる。
そいつは何でも食べてしまう「悪玉菌」だったらしい。悪玉菌を捕まえて外に出て、戦うお医者さん。
悪玉菌を料理して食べてしまうが苦しみだし、何か(悪玉菌?)に変身。

何でも食べてしまう「悪玉菌」は、『ポツネン』におけるジョンと似ているが、ジョンほどは大きくない。またKKTV2のバクの最初の頃にも似ているが、それほど大人しくはなさそうだ。
どちらにせよ、それは、小林さんがずっと手こずっているアレの姿の1つなのだろう。
恐竜(怪獣かも知れないが)は、小林自身ととらえて良いと思う。

だとすると、そいつをただ捕まえて食べてしまうのは、自分自身を治療する方法としては良くないことになる。
ではどうすればよいのだろう?
自分を治療するにはどうすればよいか。
問題の原因が起きた当初までさかのぼり、そこからやりなおすことだ。
そこで、『THE SPOT』ではかなり丹念に「さかのぼってやり直す」ことが行われ、結果、無事に治療は終了している(あくまでも彼の中ではの話だが)。

と、まあ、要はそういう話だ、と、思うわけ。

で、こっから、もう少し詳しくなるけど、
話がややこしい割には実のない話だから、読む人はそれを覚悟してね。

怪物と戦う者は自らも怪物とならないように気を付けねばならない
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『THE SPOT』深読み編。
『SPOT』と『THE SPOT』の比較で気になるとこいろいろ。

1 王様編

1坪王国の王様は、「目で見た物を信じない。見るものには騙される。」(例としてタングラム使用。同じ大きさの▲2つ。それは遠くのピラミッドと近くのテント。もっと近くの生八つ橋。)
「僕は直接体験した物しか信じない」
と言いはなって、「東洋の小国」に旅をして、様々なガジェットを持ってくる。
しかし、王様にはそれらの物の使いかたや由来がわかっていない。
それらのガジェットを1坪に並べ、ライトをある方向から当てると、後ろのスクリーンに象のシルエット。

これは『SPOT』から変わらない構成なのだが、疑問に思ったのは、
象のシルエットは「遠くのピラミッドと近くの生八つ橋」と同じ原理からなるものであって、それを象だと認識することは、王様本人がまさに「見るものに騙され」た結果だということだ。
見るものに騙されるのが嫌だから、わざわざ旅をしたのではなかろうか。
これでは旅するだけ無駄ではないか?

『SPOT』においては、王様はガジェットを並べながら、自分が物の使いかたや由来がわかっていない、と言った後、「わからないことだらけでこれでいいのかな?」とひとりごち、
「これでいいのだ。
1人しかいないから、自分がいいと思えばそれで良いのだ。」
と、言い切る。
間違うことを恐れない、と、言い切ったので、シルエットの象が本当は象で無かろうがそんなことはどうでも良くなり、
その瞬間、偽物の象は本物と同じになる。

・・・とまあ、このように考えていたのだが、
『THE SPOT』では、この部分がさっくり切られていた。

代わりにポツネン氏が登場。王様が物の使いかたや由来がわかっていないことにツッコミを入れ、これじゃがらくたばかり。とがっかりする王様に
「王様、1番欲しい物が、あるじゃないですか。ほら」
と、スポットライトを動かして象を投影。
となっている。
王様が「自分がいいと思えばそれで良いのだ。」と、発想の転換をすることによって初めて、シルエットはガジェットのそれから象のものへと変わるのに、
これでは単に「王様がポツネン氏に騙された」ということになる。

『THE SPOT』においては、キャラクター分けをはっきりさせたかったようだが、
物の見方を変える役目はポツネン氏がやることだからと、王様からポツネン氏を分離させてしまったから、王様自身の変化がただ騙されたみたいになってしまうわけだ。
王様は喜んでシルエットの象にリンゴをあげる。
「リンゴ」は、ハートを意味するものと解釈してるが、あげる相手が偽物の象では、その姿もなんだか残念な人に見えてしまう。
『SPOT』の方が良かったと思う。

・・・しかし、ここで話は終了しない。

王様が持つリンゴも『SPOT』と『THE SPOT』で変わっている。
どちらもだるまに変身できるフェイクのリンゴなのだが、まるで本物のように作られていた『SPOT』に対し、『THE SPOT』ではぺかぺか赤いいかにも作り物のリンゴに変わっていた。
何だったら、それがいかに簡単に作れるかについての解説まで入っている。
つまり、リンゴも所詮偽物なのだ。
すべてが偽物で、テーマなぞはなく、重要なのは、騙すことにチャレンジする、ということなのだ。

それで良いのかといえば、良いのだろう。
「1人しかいないから、自分がいいと思えばそれで良いのだ。」

もちろん客に見せる場合は、「1人しかいない」とは言えないから、騙さなくてはならない。
ポツネン氏の見せる象も偽物、王様のリンゴも偽物。
2人が結託して、客を騙しているわけで、うまく騙せれば楽しいし、失敗してもまた笑える。本人が。というわけ。
(KKTVのソフトに収録されているカニをマヨネーズにみせるネタは、リンゴをだるまに見せる過程を発展させたものであろう。騙すことにチャレンジすることが重要なのであって、結果は二の次だ)

2人で結託して客を騙す。
2人が互いも騙す。
この構造は、ラーメンズに似ている。
1人ラーメンズ。もしくは
ラーメンズに見せきれていない何か。

・・・どうよ?これ。
俺は、なーんか、うすら寒いんだけど。


2 うるう人編

『SPOT』のうるう人では、「1人になった経緯」が、語られている。
大まかなストーリーは『THE SPOT』と同じであるが、ややあっさりした感じになった。
話を整理した、というより感情移入の度合いが薄くなったという印象を持つ。

『SPOT』では、穴の底のうるう人は、土で象も作っていた。今回削除したのは、象は王様が担当だからキャラクターをきちんと分離しようとしたというのがメインの理由だと思う。
土で作る物は偽物なんだから、象を作っちゃっていいのか?と、思っていたが、
『SPOT』においては、偽物は「発想を変えれば本物になる可能性を持つもの」だから、それでいいのだろう。
ただし、『THE SPOT』では偽物はあくまで偽物で、本物に転化する可能性はない。
すべてを偽物にすることで逆に「偽物」という概念を無くす、という方向でモノゴトの処理が図られている。

ちなみに前回は(今回も)、土の家族と親友も作っている。
崩れてしまった親友は本物にはならない。


もう1つ変わったのは、ラスト46音アナグラムの後、眠るように体育座りで顔を伏せるうるう人は、『SPOT』ではそのまま静かに動かなくなるが、『THE SPOT』では肩をふるわせて泣く
、という点である。
アナグラムは「ねむれ」なのに、寝てないじゃん!
 というツッコミはおいといて。
孤独な状態で、完全に自分の中に引きこもってしまった『SPOT』に比べ、
『THE SPOT』では、寂しい、という感情を表に出したわけだ。

これを、人間的な感情が残っていた分、希望がもてる。
って感想もあると思うんだけど、俺はそうは思わなかった。
そもそも『SPOT』のラストでも、
・・・寝て、起きた後、こいつ多分泣くんだろうな。
って気がしたし、同時にそういう「後日談」はいらない、と思ったので、
それをマジでやられて、ちょっとがっかりした。

だって、
最初、疲れ果てて眠って、
次に、泣く元気が出たのなら、
もう少しすれば、上に向かって叫ぶ元気も出るってことだよね。

そのとき、叫ぶのか、またはしれっと土で新しい友達こしらえ始めるのか。
知りたいのはそこなんだけどな。
まあ、王様とポツネン氏からすれば、土で新しい友達こしらえてるようだけど、
どちらにせよ、
泣く元気が出たとこで話を切るって、あまり意味がないと思う。

一生、穴の中でつっぱる生き方。失敗を覚悟して穴を登る生き方。
小林さんは、いったいどちらを選ぶつもりなんだろう。


追記

うるう人については、「うるう人かわいそう」という感想が散見されるが、
それはちょっと早計なんじゃないか、と、言いたい。

彼が穴を掘るきっかけとなった出来事は、好きになった人、自分が余り物ではなく特別なのだと思わせてくれる人が、何の変哲もない普通の男と突然結婚したことにある。

でも、彼女はなぜ唐突に結婚したのだろうか。
あり得なさそうな相手と、突然結婚って、TVドラマなら絶対「特別な」理由がある。
例えばえーと、病気のお母さんを救うためとか?
何せ彼女は「特別」なのだ。そーゆーTVドラマ的事情がある可能性は捨てきれない。

そこを確認せずに穴を掘り出すうるう人は、
かわいそうなのか、単なる行動力がある早とちりなのか、どう評価すればいいか分からないのだ。

その辺が明らかでないままのこの話は、普通の話としては余りレベルの高いものではない。

この話はあくまでうるう人主観の一方的な主張なのだ。
裏切られたと訴えるうるう人を何の疑いもなく信じ、感情移入するのって、どうかと思う。
なにせ、相手は小林賢太郎なんだから。
(小林さんに積極的に騙されたいと望む、ファンの鑑に対しては俺は何も言わないけど)


追記その2 メモ 2012.1.17
『THE SPOT』パンフのアイデアスケッチには、井戸やけん玉などのスケッチの横に「内臓」と書かれている。

 内臓-ない象

 とすると、あれは偽の象というより、「ない象」なのであり、
するってえーと、王様はポツネンに騙されたことで無いはずの象を見るんだから、騙されて初めて「内臓」を見るわけで、
つまり、
騙された状態にあって初めて本物の内臓(作者の心の内)を見るってこと。
 なのか?

それは一方的な理屈だと思うが。

追記その3 2012.1.29
自分の本当の感情(内臓)を嘘の話(ない象)に封じ込める。
嘘の話(ない象)が客に受け入れられれば(騙されて象を見る)、感情を表に出さない(内臓を内臓として出さない)まま、それをなだめることができる。一瞬だけど。

自分の本当の感情の埋葬。-埋める。掘る。穴を掘ることで「余らなくなる」。
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こういう身近な話題には、多くの人が意見やコメントを述べるものなんだけど、
まーーー、たたく奴が多いのに驚いた。
べつにChim↑Pomを擁護する気もないんだが、こう感情的なコメントが多いと、
いったい何が気に入らないんだろう?
と、気になる。

渋谷駅構内の岡本太郎「明日の神話」の横に、アート集団Chim↑Pomが福島第一原発事故の絵をくっつけて、1枚の絵のように見せかけたわけなんだが
くっつけた部分はすぐ剥がせるし、元の壁画に損傷はないから、そんな目くじら立てることもあるまいに、と、俺なんか思うのだが。

事実を誤認したコメントも多く見られ、これは、「いたずら」とか「落書き」と表現した見出しから、かってに岡本太郎の壁画の上に書き加えたと想像してコメントしたものと思われる。
どうもTwitterというものができてから、記事を読まずにする書き込みが増えたように思う。

で、このての落書き未満のコメントを除くと、主流の意見は、「モラルに反する」「芸術と言えば許されると思うな」というものだ。
いまどき「芸術と言えば許されると思っている芸術家」なぞいないし、万が一そういう60年代的な化石が生き残っていたとしても、毎度お騒がせ集団で有名なChim↑Pomがそんな甘いことは考えていないのは確かなのだが、世の人はことほど左様に「芸術家」が嫌いらしい。

もっとよくわかんないのが「モラルに反する」というやつで、どんな「モラル」に反しているのか、モラルの内容が書かれたものは見あたらないのである。

これを言うんだったら「法律に反している」という方がまだましで、
これであれば軽犯罪法1条33号のことだろうなー、と予想がつくからで、こーゆーとこが法律のありがたいところだと俺は思う。
ただしこの程度で起訴したとすれば、軽犯罪法4条に違反するおそれがあり、そっちの方がよっぽど問題なんだが。

法律はまだ内容がわかりやすいけど、「モラル」は内容がわかりにくいので、中身を書いてもらえない以上、こちらで考えるしかない。

まず少なくとも「公共物を傷つけてはいけない」というモラルには反していないことは確かだ。
つぎに、も少しハードル下げて、「みだりに他人の仕事を増やしてはいけない」というモラルはどうだろう。
付け加えた部分をひっぺがすのは大した手間でもないと思えるので、これもイマイチ説得力がない。
この件を取材しなければいけないマスコミの皆さんの仕事を増やしているのがいけない、とも、言いにくい。

とすると、「公共物に手を加えてはいけない」というモラルがあって、それに反しているのかも知れない。
うん、これはありそうだ。
公共物、たとえば信号機とか街灯とかの柱に、販促用に貰ったシールやステッカーなんぞをなんとなく貼り付けちゃうのと同じ、といえそうだ。
もしも街灯に販促用シールを貼り付けている奴がいたとして、とがめられたそいつが「芸術だ」とか主張しやがったら、がっぺむかつくよね。
感情的に嫌う人って、そういうイメージなのかも知れない。

でもさ、そうだとしたら、
そういう人たちって、岡本太郎の壁画「明日の神話」を街灯の柱と同じって考えてるってことだよね。
もし「芸術」に手が加えられたとしたら、問答無用に「公共物に手を加えてはいけない」って、言ったりはしない。
ときどき、道端や公園の裸の子供の彫刻に誰かが服を着せたものを見かけるけど、それは「公共物に手を加えてはいけない」モラルに反してるのかっていうと、意見は分かれそうな気がする。
そのコスプレ彫刻が「ありやなしや」という芸術判定が加わるからだ。
芸術判定がないからさらっとモラル違反を言えるんだと思う。

「モラルに反する」と主張する人たちのうち、どれほどが、肝心の絵を見ているのかわかんないけど、
絵を見ないで済むと思ってるのなら「モラルに反する」と主張する人たちの言いたいモラルって、
「公共の場にある芸術作品なぞに興味を持ってはいけない」というモラルなのかも知れない。

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朝日新聞がやたらと押してるので見に行った。
押してるのは朝日新聞が主催者だからだと知ってはいたがオペラシティアートギャラリーであれば、外れと言うことはないはずだ。1000円だし(後から気がついたが、小田急のクレカを提示すればオペラシティアートギャラリーは団体料金に割引される。ちっ)。

ホンマタカシの名前は知っていたが、どうかするとタナカカツキと間違えてしまう程度のもんだった。やってること全然違うのに。

で、会場に入ってしょっぱなの作品、「Tokyo and My Daughter」シリーズの1枚目の写真の構図が、
思いっきりエリオット・アーウィットと同じだった。
俺はバカにされたような気分になった。
大体「Tokyo and My Daughter」シリーズ自体が、
タイトルを直訳すると「東京と私の娘」となりますが、実はこの少女はホンマの友人の子供で自身の子供ではありません。 (公式HPより)

という、人を食ったものなのだ。
おまけにホンマが撮った写真と少女の家族のファミリーアルバムからホンマが複写した写真が混ぜて展示されている。
そのあげくに構図がパロディと来た日には、

・・・どーゆー構えで見ろっちゅうねん!

と、帽子を床にたたきつけたくなる。

どうしても、2,3歩引いた地点から作品を眺めることになる。
まあ、それが作者の意図なんだろうけど、何かそーゆー仕掛けがめんどくさい奴だなあって思うのだ。

2,3歩引いて見ても被写体の少女は魅力的なので、鑑賞は続けられる。
少女が中心となって、背景だけがめまぐるしく変わり、時間もランダムに前後する感覚。
コマ撮りを使った実験的アニメに、いろんな場所にある同じものを撮った写真を連続してみせる物があるが、そんな感じ。
でも、それを見せるために、わざわざ「私の娘」って嘘つく必要あるのかなあ。
ホンマの娘だろうと、その友人の娘だろうと、どっちでも俺にとっては同じなのに。

「Toghether」は、野生のマウンテンライオンが見たであろう風景を撮影した写真をリポートテキストとともに展示したもの。
同じ風景を人間の目線とライオンの目線、2つの視点で眺めることができる。
野生動物と人間の共生の1つの試みのレポートとしても面白かった。
でもリポートの目線が人間=悪みたいな目線でグリーンピースっぽい。
郊外の住宅地近くでなぜ、人間も襲うマウンテンライオンを保護する必要があるのかについて書かれていない。
一方、最後の方に、風に吹かれた木の枝が砂の上につけたワイパーみたいな痕跡が動物の足跡の写真があり、写真家の興味はそっちの方にあるのでは、と思わせた。

そういえば、ホンマタカシの目線は、都会に住む野生のカラスとかが人間を見る目に似ている。
興味の対象や価値観が全く違うものの乾いた目線。
そう考えると「Trails」もわかってくる。
鹿を追うものと、それを2,3歩引いた地点から眺める者。

総合して
見せ方はうまいと思うけど、好みではない。
何をどう見るかはワタシが決めることであって、他人に指図される筋合いはない。
と、俺は考えているからだ。
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1月にやった第0回アウェイ部ライブ『アウェイ部』の再演。

浅草橋はプロの街だ。タオル、販促品、風船、造花、などの問屋が軒を連ねる中、アドリブスタジオ小劇場に向かう。
小さい劇場だが、補助椅子も出ていて、ほぼ満員。100人入ったか、というとこ。
舞台の床に近いとこが補助椅子の客の陰になって見えなくて、
ころがりながら面白い顔してる(らしい)とこが全然見えなかったのが残念だった。

前回のライブのネタは小林賢太郎が指導しながら1ヶ月で作られた物だそうで、今回の完全版はそれにアウェイ部が手を加えたものだ。
新作1本を加え、かつ、体裁と内容を大きく変えたネタが1本。
小林さんは「まあ僕に言わせりゃちっとも完全じゃありませんが、」と、言っていたが(あいかわらずツンデレだ)、
完全じゃないにしても、前より良くなっていると思う。
前回はラーメンズに似てるのが気になったけど、今回は慣れたのか、新ネタがラーメンズっぽくなかったせいか、それほど感じなかった。

「国民性」のネタを、各話の間に挿入してゆく、というように作品の構成を変えたので、全体通しても新しくなった感じがする。

ノアの箱船の話のラストがわかりやすくなっていて良かった。
前回は、なぜ神様がノアに1番のクズだと言われなければならないのか全く分からなかったが、今回は感覚的につかむことができた。

新ネタも下らなくて面白かった。ONYのやる「サイボーグの電子音」が超うまい。

ただ、「国民性」は、全体通じての話になってしまったので、何か素敵な大オチを考えざるを得なくなり、最後に新しい話が加えられていたが、
最早「国民性」の話じゃなくて、単なる個性の違いの話になっていた。

これに限らず、話がアイデアに寄りかかっている感じでテーマの掘り下げが浅いため、話のドラマ部分に盛り上がりが欠ける点がひっかかる。
辛抱さんなんか、彼が喉の渇きや可愛い物を我慢しているだけではなく、「友情」も我慢していた、って設定にすれば、
もっと誕生日のシーンを楽しめる、とか思ってしまった。

まあ、そーゆー叙情的なことをあえて避けるって方針なのかもしんないけど、
それならそれで、何らかの別のテーマの掘り下げをしないと、結局何がしたいのか、何を見せたいのかがよく分からないままになってしまう。


最後の観客の拍手が鳴りやむタイミングで、「辛抱さん」のおまけのオチをやる予定だったところ想定外のアンコールが出てしまい、
2人がおたおた舞台を走り回るのが受けた。

10月に次の単独ライブをやるそうだ。
次はアンコールにもびびらないよう頑張って欲しい。
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