<   2007年 12月 ( 6 )   > この月の画像一覧

12月20日付の朝日新聞に死刑廃止についての団藤重光(94歳!)インタビューが載った(朝日のHPには見つからなかったので、検索して適当にリンク)。
国連総会の死刑執行の停止を求める決議案の採択絡みだろうが、朝日新書から団藤重光の本が出たことも絡むのかもしれない。
なお、ほぼ同時期に毎日新聞が死刑についてのアンケートを採って、死刑存続の圧倒的多数を発表している。
俺自身はと言えば、死刑の是非について態度を決めかねているのだが、
廃止論にひかれる主な理由はこの「団藤重光が死刑廃止論だから」だ。

法律学者のなかで、俺が素直にすごいなあ、と思うのは、我妻栄(民法)と、この団藤重光の2人だ。
理由は単純で「文章が読みやすいから」。
刑法は、諸説が入り乱れ、また、社会の変化の影響を受けやすい分野なので学説は複雑化し、迷宮に入りやすいのだが、団藤重光の本は、刑法の「屋台骨」をぽんと提示してくれる(言い替えれば、屋台骨以外は<注>に掲げられている大量の参考文献を自分で読んで済ませろという意味だが)。
ただし、彼の書いた一般書は読んだことはない。
自慢をしているか、相づちを打っているかのどちらかだから。

ともかく、彼のいう、「誤判があった場合に死刑は処刑したら取り返しがつかない」は強い説得力をもつ。
多分これが多数派である死刑存置論の唯一の弱点といっても良いだろう。
死刑存置論の魅力は何と言っても、世論の多数が望んでいるのであり、望んでいる以上一般抑止力はあると思われることだ。現実的なのはこちらの説であろう。
廃止論側から、国際的な流れが死刑廃止にあることを指摘する論もあるが、刑法の国際化の流れを考慮しても、死刑制度の存続は今なお国内事項といえる。
国連総会の死刑執行停止決議をもって死刑を廃止しないから日本は「国際法違反」だとまでいう論調も見られるが、それは、国連総会の決議の法的拘束力(採択に賛成した場合、反対した場合)と、国際法と国内法の効力関係について無頓着な意見としか思えない。
さすがに団藤重光はこの辺を理解していて、国連の死刑執行停止決議について「(決議に従わないと)国連に入る意味がない。」という法律色のない理由付けをしている。
・・・彼のいう「国連に入る意味」が何なのかよく分からないけど^-^;(国際公序の形成って意味かしらね?)

誤判により死刑を科してしまい、執行されてしまう場合がありうること、を存置論側はどう考えるかははっきりしない。
朝日の記事にあった、死刑存置論と廃止論の主な論点表には
「誤判が起こり得るのは死刑についてだけではない。司法制度全体の問題だ」とある。
つまり、誤判がなくなれば、当然誤判により死刑を科されることもなくなるわけで、死刑をなくすことではなく、誤判をなくすことで、誤判による死刑執行という悲劇を防ぐべきだと言うことだろうが、これは問題のすり替えであろう。
そして、この問題には、はっきり表に出ることはないが、もう1つ重要な認識が関わっていると思う。
それは、
「冤罪で死刑が科されてしまう場合はいったいどの程度の割合で生じているのか」
ということだ。
この数字が小さいのと大きいのとで、誤判をなくすのと死刑をなくすのとどっちがよりてっとり早いかという判断に影響が出る。
さあ、何%だと思う?


冤罪の真の発生率は永遠の謎だ。冤罪の統計を取るためには、神の目から見た真実を知らなければならないからだ。
だから、頭の中に大体このくらい、という漠然としてイメージがあっても、それを具体的に数字にして言う者はいない。裏付けデータはないからね。
特に刑事司法にたずさわるプロはめったなことは口には出来ないので、何となくその辺の話題をスルーする傾向がある。
だから、俺も何かのデータで確認したわけでなく、雰囲気的に何となく感じる、という程度だが、と、前もって念を押しておくが、
たぶん、一般の人が思い浮かべる冤罪の%よりも、刑事裁判に関わるプロが考える冤罪の%の方が、ずっと高いと思う。
死刑が求刑されるような重大事件は特に慎重に裁判がなされるが、それでも、冤罪の発生率を問われて、「0!」と元気に即答できるプロはいないと思う。

団藤重光が死刑判決を出したときに傍聴席から「人殺しーっ」と怒鳴られたことを契機として廃止論に転じた話は有名であるが、私はそれを彼の個人的な感傷だとは思わない。
彼は、そのときに、誤判をなくすのと死刑をなくすのとどっちがよりてっとり早いかという問題について、合目的的な判断を下したのだろうと思う。
法律家は常に頭の中に天秤を持つものだから。


 やれやれ、何とか法律系の話題で今年をしめることができる・・・。
(´-`).。oO
[PR]

「フランダースの犬」が日本人にだけ受ける理由は「滅びの美学」にあり!


いろいろ議論が出来そうな、ブログ向きのナイス小ネタなので、早速のっておこう、と思ったのだが・・・
考えてみたら、おれは「フランダースの犬」で別に泣いたり感動したりしなかったので、「受ける理由」が俺にもよくわからないんだった。

うーむ。と、とりあえず、わかる範囲で。

この監督、プロデューサの言う「滅びの美学」とは、ネロよりもパトラッシュの方を指していると思われる。
「信義や友情のために敗北や挫折を受け入れ」たのは、ネロではなく、パトラッシュだから。
つまり、パトラッシュメインで話をとらえているようだ。映画のタイトルも「パトラッシュ」だし。
しかし、あの話に泣いた、という人で「パトラッシュがかわいそう」と言っているのは聞いたことがない。
「ネロがかわいそう」か「ネロとパトラッシュがかわいそう」というのはよく聞く。
やっぱり、「ネロ少年メイン」なのではないだろうか。

そこで、考えてみよう。
パトラッシュを抜いて、かのシーンを再現してみる。
ネロが一人でルーベンスの絵を見て、「あー、眠くなってきちゃった。」とか独り言を言って、一人で死んでいった。
・・・うーん、かわいそうという以上に痛々しくて見ていられないかも。
ネロ一人だったらここまで受けなかったとは思う。

次、ネロを抜いてみよう。
ネロはどっかパトラッシュと離れたところでのたれ死んだ、と。
で、パトラッシュ、おじいさんからその話を聞き、ルーベンスの絵の前に行って、孤独にうずくまる・・・。

・・・いけるじゃん・・・忠犬ハチ公っぽいよね。

あれ?てことは、この話の主役って、やっぱパトラッシュ?
パトラッシュwithネロ少年のユニットなわけ?

それでは、もう1例、考えてみよう。
パトラッシュが大きい犬じゃなくて、子犬だったら?ナウシカのテトみたいな感じ。
このコンビでルーベンスの絵のところをやってみると・・・
・・・うーん。なんかネロ一人が死ぬのとあまり変わらないよね。
やはりパトラッシュは大きくなくちゃね。

むーん。・・・と、いうわけで、この話の主役はパトラッシュと言うことになってしまいました。

このリクツと、さっきの「ネロがかわいそう」と言う心理を理論的に一貫させるために、無理矢理理由付けすると、

ネロ少年のあまりの可哀想さに、視聴者に「そばにいてあげたい」という気持ちが起き、それが主役たるパトラッシュに視聴者を同一化させる。
パトラッシュと同一化しているがためにネロについてはかわいそうだと思うが、パトラッシュについては特に言及しない。

と、いう感じになりましたが・・・(自分で言っておきながら)そおかあ?

と、ゆーわけで、謎は謎のままなのでした。
だって、俺は泣かなかったからね。わかんなくて仕方ないやね(投げやり)。


なお、皆さんご存じの通り、日本で「フランダースの犬」というのは、アニメ版のことを指し、それは必ずしも原作と同じ指向ではない。
原作では、ネロ少年の絵が新人賞を取り、奨学金が下りるということが亡くなった次の日に分かる。
つまり、ネロはもうちょっと生きていれば報われたはずのわけで、それがあるからネロは「負け犬」ではなく「アンラッキーな人」なのだ。
原作の最後は、ルーベンスの絵の横に、黒いリボンで飾られたネロの描いた絵が飾られ、ネロ少年に目をかけていた人達が、自分達の非力を悔やみ、無情な世間に怒りを向けるというシーンで終わっていて(そしてだからこそ、さんざんな言われ様の「無情な世間」の皆さんの受けが悪かったわけだが)、「泣きポイント」は実はこちらのシーンだ。

アニメはその重要なシーンがすべて無視されている。これではそれこそ「負け犬」のままだ。
で、そのままじゃ可哀想すぎるかなーとか思って、死んだとはっきり描写せずに、天使様が適当に踊り-の空飛びーの、夢っぽいかもー、死んでないかもー、みたいなことをやって、あやふやにぼかした(これは制作チームがTVインタビューで認めていた)。
もお最悪。しかもそんなことしても誰も騙されてないし。
そんなわけで、アニメに対する俺の評価は実はかなり低いのだが、このことは、誰かに話したことはない。

だって、空気悪くするだけで誰も得しないもん。
[PR]
映画『腑抜けども悲しみの愛を見せろ』を見て、気に入ったので、舞台も見てみることにした本谷有希子。
彼女は学校の職員室を舞台にした『遭難、』の評価が高いみたいだけど、そちらではなくてわざわざ『腑抜けども悲しみの愛を見せろ』とほぼ同じ設定で、多分作者本人の経験に基づいたこの話を見ることにしたのは、安全牌だからだ。
今回のお話は、ホームドラマ。舞台の上にはきっちり田舎の一般家庭のリビングと仏間と
玄関先が作られていた。これだけ物が多い舞台は久しぶりにみるなあ。
映画やこの舞台からして、これは多分、野田秀樹が嫌いであろう「等身大」の「家庭」の話なんだろうなと思う。
別にNODA・MAPの次にこれを観たのは野田秀樹に対するイヤミではなく、偶然であるが、なんとなく「等身大」という言葉が頭に引っかかったまま観ることになった。

礼儀
[PR]
ニンニン。
と、やる気がまったく感じられないタイトルで始まる。

橋下さんが大阪府知事選に出馬を決めたのを見計らったかのように懲戒請求が出たが、懲戒請求自体は別になんてことはない。誰だって出来るんだし、橋下さんは昔からよく懲戒請求されているらしいし。
ただ、ちょっとひっかかるのは、この懲戒請求が、わざわざ報道されたってことだ。

今までなら気にもしなかったことが、ネットをやるようになって、俺にも少し知恵がついた。
誰かが懲戒請求書を弁護士会の窓口に出しただけでは新聞記者はやってこない。
今まで橋下さんがされてきた懲戒請求だって、いちいち記事になっていない。
誰かがマスコミに情報提供したから、記事になっているのだ。しかも、情報提供は懲戒請求書提出前に行われている。つまり、橋下さんに懲戒請求することを大々的に世に知らせたいと思った利益集団がある、ということだ。
今回の懲戒請求に選挙妨害という政治的な意図があるのでは、と、勘ぐられるのはここから来ている。

また、今回の請求は、342人がなしたとされている。
ruhiginoueさんからの情報によれば、これは「あくまで賛同者」なのだそうだ。
賛同者というのが何なのかよく分からないのだが、要は、別に請求書が342通あるわけではなく、1通であり、弁護士会の中の人にムダな仕事をさせないように出来ている、ということなのだろう。
こちらのとても素敵なふいんきのブログでも、最初に懲戒請求があって、それから賛同者を募ったという経緯であると書かれている。
ただし、賛同したに過ぎなくても懲戒請求書に請求者として名前を出せばそれは立派な請求者だ。訴訟で原告がたくさんいる場合、裁判を効率よくやるために「原告団」を作るのと同じように、342人の「請求者団」というわけね。
直接の利害関係がない人を賛同者として募集する必要性っていうのは、数の論理にものを言わせるつもりってことで、つまり、マスコミへのアピールっていう意味しかない。
賛同者を幅広く募って懲戒請求を起こすということ自体が呆れたことなのだけれど、相手が橋下さんとなれば、まあ、自業自得っつーか、因果応報っつーか、ぶったらぶたによく似てるっつーか、・・・とにかく文句をいう気もなくなってくる。
だって、そもそも幅広く賛同者を募集して懲戒請求をするなんてことを最初にやったのは橋下さんの方だもんね。

これに関して、よく情報を収集させていただいているブログの主、モトケンさんは懲戒請求が相手への攻撃手段として使われ、紛争が無用に紛糾、複雑化することを嘆いておられる。
気持ちは分かるが、誰でもできる以上、懲戒請求をどの様に使おうと、請求者の勝手。
裁判だって、紛争解決ではなく、ただの攻撃手段や、さらには、ただの時間稼ぎのために使われることは珍しくない。
弁護士の数が増えればこういう、紛争のための紛争を起こす傾向はさらに強まると思う。それが訴訟社会。

で、ますますやる気のない記事になっていくわけでござるよ。ニンニン。

正直、今回の請求(正確には請求をマスコミに発表したこと)が橋下さんへの嫌がらせだろうと、政治的な意図だろうと、東京に住んでいる俺にはあまり関係ないしね。
懲戒請求の結果は投票までには出ないだろうから、有権者には直接の影響は出ないと思うし、自民、公明の推薦が今回の請求に影響されるとしたら(橋下さんはまだ自民・公明の推薦をもらっていない)、なんかその程度で推薦したくなくなるなら、最初から推薦する気が余りなかっただけなんじゃないかと思うし。

おまけに、今回の請求を仕切っている弁護士(請求者の中にはその弁護士の名前はないそうだが、代理人なんだからそれで十分。別に請求者も兼ねる必要はない。)は名前を伏せているが、まあ、漠然と児島弁護士かなあとか思うが(漠然とねー)、橋下さんと個人的な因縁があるらしくて、そうすると、政治的意図どころか、個人的意図かよ、という感じになってきて、もうすっかり泥仕合。
あーあ。

ニンニン。
[PR]
恥ずかしい話だが、俺は言語感覚が人より鈍い。
IQテストでも「言語」分野だけは人並み以下。ワープロソフトがなければ書けない漢字がどれだけあることやら。
そんな俺が言葉遊びの多い野田秀樹を苦手としてもおかしくはないわけで、だから前回の『ロープ』がよく分からなかったのなら、別に無理してまた舞台を見に行かなくてもいいのだが、初戦で敗退というのがむかついたので、再度チャレンジしてみた。
『キル』は何度目かの再演だったせいか、妻夫木聡とか広末涼子とかが出ている割にはチケットが手に入りやすかった。
シアターコクーンは『ロープ』のときに中2階の席を取って失敗した経験を生かし、「中2階の中ほどよりも、1階の後ろの方がまし」の教訓に沿って席を取った。


モンゴルの大空とファッションショーの舞台をイメージした舞台美術と照明が美しい。
「にほんごであそぼ」でおなじみ、ひびのこづえの衣装も雲の塊のようなイメージがあって、テーマと合っている。
広末涼子とゆー人はテレビで見ている限り、きれいだがしゃべり出すと残念な人、というイメージがあったが、今回はおばかなモデル役、つまり最初から残念な人という設定だったので、残念に思わないで観ることができた。
つか、ちゃんと出来てるし。
お笑い担当、勝村政信が怒鳴ったり走ったり、大活躍だったが、隣のおばさんは「あいつ、目立ちすぎ」とおかんむりだった(妻夫木のファン?)。


さて、お話は、キル-切る-着る-kill、というわけで、ジンギスカンの世界とモードの世界が重なる世界で、世界征服(制服)のそーだいな話が繰り広げられる
   のだが・・・うーん、やっぱり苦手。
言葉遊びのおかげで、台詞を反芻している間にどんどん先に進まれてあせってしまい、ついには台詞を聞き漏らしたりしてしまう。
そのせいか、どうも舞台の世界に今ひとつ入り込めない。
第2幕では、背もたれが高い椅子(マッキントッシュのはしご椅子みたいなの)を何かに見立てて話を進めることが多いのだが、何に見立てても残念なことに俺には椅子にしか見えなかった。
話が理解できないわけではないのだが、ジンギスカンの世界征服と、世界を覆わんばかりのファッションブランドの流行と、2つの全く違うものを重ねているせいで、話が抽象的で感情移入しにくいのだ。
要するに、親から得られなかった愛の欠落を埋める話なら、どっちか片方の世界の話だけで別にいーんじゃないのかなー・・・なんてぼんやり考えてしまった。


とか、考えていたら、朝日の文化欄の記事に『キル』のパンフからの野田秀樹の文の引用が。ラッキー。
では、二重引用を。
野田秀樹が上演中の自作『キル』のパンフレットに、こう書く。
<「等身大」の物語が大嫌いだ>。<「紅葉の葉脈の小さな迷路に迷い込んだり」「朝の光をむしゃむしゃ食べる」ようなことが、作家の書くべきこと>であり、職場や学校、家庭でのあれこれを描く「等身大」の演劇は<敵>だ、と。

なるほど言いたいことは分かる。
が、モンゴルの青い空に、世界を巻き込むブランドの話を掛け合わせれば無条件に物語のスケールがでかくなるというものでもない。
最近大型液晶TVを買った俺は、深夜アニメなんかをちょいちょい観るようになったのだが、「世界の滅亡」とか「地球の存続」が絡む話のくせにスケールがちっちぇえったらありゃしない、という話がごろごろしている。
話のスケールが小さいのではなくて、出てくる人間のスケールが小さいのだ。これはつまり、作り手のスケールが小さいということでもある。
人間のスケールが大きければ、職場や家庭での話でも十分に大きな話になれる。

それに、ぶっちゃけ、紅葉の葉脈の小さな迷路もしくは朝の光をむしゃむしゃ、の類の話は、今の時代においては、だいたい親に愛されない子供の話になる。「孤独」が強く絡む話だからだ。

親に愛されない子供の話も、十分等身大だと思うのだが。
[PR]
Excite エキサイト : 政治ニュース

橋下さんが出馬すること自体は、まあいい。
「世間」が好きな橋下さんは、司法部門よりも政治部門の方が向いているだろうし、また、彼の「世間」はどうも大阪圏が中心ぽいから、大阪府知事というのはちょうど良いだろう。
今枝さん達との民事訴訟に敗訴するとすれば、橋下さんに懲戒請求が出され、それが入れられて弁護士業が危うくなって、で、弁護士というステータスの上に成り立っているタレント業(橋下さんはタレント業をそのように認識しているようだ)も危うくなる、という流れもシャレにならない程度に考えられる。
裁判の結果が出る前に新しい就職先が確保できればラッキーだ。
何だったら、先手を打って、自分への懲戒請求の結果が出る前に弁護士廃業ということもできる。


・・・にしても、やりかたがひどい。余裕が感じられない。
一度出ないといっておいて、1週間で意見をころっと変える。

多分、決めかねているうちに新聞にすっぱぬかれて、それにむかついたので「出ない」方向に決めることにしたのだが、決めたつもりでまだ腹がすわっていなくて、
逆に「出れば当選確実なのに」という「世間」の声につつかれた自民党の中の人、もしくはたかじん(橋下的には、世間≒大阪≒やしきたかじんという関連性があるぽ)に押し切られた、
と、いう感じかな、と思う。
それにしてもやり方がもっとあるだろうに、中途半端に正直に喋るおかげで、迷いがもろバレになってしまうあたりがなんつーか、(ノ∀`) アチャー

懲戒請求騒動のときもそうなのだが、何かこの人は
「下手こいたーっ!_| ̄|○」
って感じで事を運ぶことが多い。
懲戒請求運動について、橋下さんが世間一般の人に対して「うまくやっている」と、評する人も多いようだが、俺は1つもうまくやっていると思っていない。
うまくやる、とは、計画通りに物事をすすめることをいう。
しかしこの人は初めから懲戒請求運動をしようと計画してテレビでアピールしたわけではなく、単に口を滑らしたのが引っ込みがつかなくなった結果、こうなっただけだ。
4000人もの懲戒請求を可能にしたのは、世間の風が吹いているところにたまたま口を滑らして火種を放り込んでしまったからに過ぎない。

今回だって、新聞に抜かれなかったら、果たして出馬を決めたかな?という疑問が残る。
何でもいいから、他人からきっかけを与えてもらわなければこの人は自分のことを決められない類の人のようだ。
いわゆる「よいこ」なのだろうと思う。


それでも今のところ目立つ対立候補は出ていないようだし、当選はできるかもな、という気もする。
大阪圏では、世間の風はまだ吹いているってとこかな。

ま、東京に住んでる俺はそーゆー風は感じてないけどね。
[PR]