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靖国参拝いろいろ   

さて、1日違いで、東京高裁大阪高裁の判断が割れたわけだが、俺的に面白かったのは、それよりも、大阪高裁の裁判長が判決主文しか述べず、判決要旨を法廷で述べなかったことだ

総理大臣の靖国参拝を裁判で争う場合、原告(国じゃない方。必ずしも控訴人ではないため、この記事は理解しにくい。)敗訴を導くには大きく2つの理論がある。
1つは29日の東京高裁が採った理論で、靖国参拝を首相の私的行為として、政教分離に反しないとするもの。
もう1つは、昨年4月の福岡地裁が採った理論で、政教分離に違反する行為があったが、原告の利益は侵害されていない、とするもの。この理論をとれば、政教分離に違反していようがいまいが、原告敗訴なので、本当は政教分離違反を判断しなくても良い。だから、政教分離違反の判断はあくまでおまけだ。判決にも、政教分離違反の判断をするものとしないものがある。
靖国参拝の訴訟を起こす場合、金の請求は実際上の目的ではなく、裁判所による「違憲」との判断を得ることが目的だ。従って、原告敗訴でも、後者の理論でかつ違憲の判断さえされていれば一応OKだ。だから判決主文よりも判決要旨の方が重要になる。
今回の大阪高裁は原告敗訴だが、後者の理論でかつ違憲の判断をしたので、実質的には原告は喜ぶべき判決ということになる。しかし、さいばんちょはそれを法廷では明らかにしなかった。
どうも、原告団が喜ぶ顔を見たくなかったのではないかと思う。

大阪高裁は、平成4年に中曽根首相の公式参拝について後者の理論でかつ違憲の「疑いがある」という判断を出している。これが今回の判決を出すにあたりどの程度影響があるのかは俺にはわからないが、平成4年の判決より踏み込んだ違憲判断をしたのだから、裁判長が実は個人的に意に添わない判決をしたというわけではないのだろうと推測する。
別に原告団のためにこういう判決を出したのではない、と言いたかったのだろうか。
東京と大阪で判断が割れたことによって、最高裁判断を要求する雰囲気がでてくるのがうっとーしかったとか。
法律関係者というのは、プロ意識からくるのだろうが、どーも、下々のパンピーに対して冷たいところがある。あと、マスコミとかそーゆーのね。
何をやるにも裁判員制度をにらんでやらなければならない現状においては、なんか、それって逆に損してると思うんだけどね。
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by k_penguin | 2005-09-30 15:58 | 裁判(判決評) | Trackback | Comments(0)

ラーメンズ(その3) Stage or TV? -Round2-   

今月はラーメンズ強化月間。今決めた。

さて、1月ほど前に、舞台中心でほとんどテレビに出ない活動って、どうなん?的な話をしたが、先月に出たばかりのDVD『完売地下劇場REVENGE』に収録されている朝まで生バトルが見事に問題解決をサポートしてくれた。
水道橋博士を司会者とするこの討論はお笑いという表現活動を職業とすることについて考えさせられる多くの論点を含む、それ自体有意義な資料であったが、舞台活動からはわからないコバケンの弱点もよく見せていた。

それはつまり、協調性まるで無し。他人に使われることが出来ない、ということ。
これでは確かにテレビではやっていけない。テレビ番組は何をおいても共同作業であり、そして組織的な商売なのだ。
とはいっても、この程度の協調性の無さは、実力ある若い者ならデフォルト装備。
世間にもまれているうちに、角は取れるさ、と、いうのはあくまで他人が言う意見。本人にとっては崖っぷち。
ギリジンはふわりとした雰囲気のオタクさんだから、他人に頭を下げてはした金を貰うことについて割り切ることもできるだろう。しかし彼は、ラーメンズについて意見する立場に自分はないと思っている。

自分の意に反して頭を下げるくらいなら、金をたたき返す方がまし。
言い方はかっこいいが、その実、自分に自信がないことを隠す者が言う定番台詞だ。
「私は蛇とワニと戦って、下の娘を幼稚園にやりました!」と言い切る土田晃之の方がよほどかっこいいのだ(いやDVDに土田は出てないが)。
そのこともコバケンは知っている。自分は単に腹がすわっていないだけなのだ。
他人にあれこれ言われて自分が揺らぎ、無意識のうちに自分の作品が汚れること、いやそれ以上に作れなくなるかもしれないことが怖いのだ。

みんなに出来ることが自分には出来ない。
それは天は二物を与えない結果であり、責められることではないのだが(みんなに出来ないことができる者はその代償としてみんなが出来ることが出来なくなる)、やはり苦しいものだ。
でもって、現実問題として責められるしな、これが。「まあまあなのに」出来ないの?とか言われるんだ。これが。
ラーメンズはコバケン1人が背負い込みすぎた。彼の限界がそのままラーメンズの限界になってしまった。

テレビに出ているからといって、人間的に立派であるわけではないし、技量があるわけでもない。営業という観点からは無視できない大きな力を持つが、表現手段としてはテレビは1つの選択肢にすぎない。
しかし、あえて上から目線でものを言わせてもらうと、こうなってしまった以上、彼はいつかはテレビと対決しなければならないと思う。
前回、ラーメンズの作品の気になる点として、完結しすぎていることを挙げた。
コバケンは自分のことを本当によく理解している。
彼が演じるいくつかのキャラクターは全て同一人物の一側面である。自分を分析し、要素に分け、それを延長して作品に結晶させる。観る者は糸をたぐってゆけばよい。それだけ。糸は全て小林賢太郎にたどり着く。
そしてそれこそが問題なのだ。
だって、ふつーの人は、赤の他人になんかキョーミないからだ。彼は究極的に、自分のためだけに作品を作っているのだ。彼の作品は全てコバケンでありすぎるのだ。

表現者ならば、自分の作品がより多くの人に受け入れられることを望むはず。おそらく彼自身が、これを問題点として把握していると思う。彼はよく理解している人だから。
ただ、理解はしているが、対処方法は見つからない。鍵は束で持っているが、開ける扉がないのだ。

扉は外側を見つめて初めて見つかるものだ。内側ばかり見ていても見つからない。
そのために、やはりテレビとは何らかの形で対決しなければならないと思うのだ。
見栄とか営業のためではなく、表現のために。
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by k_penguin | 2005-09-27 23:45 | エンタ系 | Comments(0)

のまネコvsのまタコ   

概略はこちら。
のまネコについては記事を書くつもりは無かった。本当は。
別に法律的な引っかかりは無いからだ。例のフラッシュも俺は1度しか見たことが無い。

エイベックスのやり方には特に問題はなく、この手のことの処理としてはフツーだと考えていた。のまネコは確実にモナーを写したものであるが、フラッシュ作者のわた氏が自分で描いた絵でもある。つまり、モナーとわた氏オリジナルが渾然一体となっているブツがのまネコだ。
エイベックスとしては、以前からあるモナーについては何ら権利主張はする気は無いが、自分が売り出す映像や曲が勝手にデジタルコピーされることは避けたい。
つまり、酒をがぶ飲みしているそいつの「モナーパート」には手をつけず、「わた氏パート」のみに権利を設定したいのだ。
しかし、そのようなことは今の法制度ではできない。そこで、類似の制度を利用するしかない。
大は小を兼ねる。
モナーに似たそいつを「のまネコ」と名づけ、オリジナルとして扱って全体に商標権なりを設定する。ただし、「モナーパート」には自主的に権利行使をしない(純理論的には権利行使できない)。
このようなやり方は、サンヨー電気が商標登録している「デジカメ」という言葉についても採用されている。家電売場などの「デジカメ売場」標記のように、デジタルカメラ全般をさすことが明らかな場合にはサンヨーは文句をいわない。ただ、他のメーカーが「当社のデジカメ」と言う場合は文句を言う。
パワーシャベルで砂遊びをするようなやり方だが、これしかやり方が無いのだ。

エイベックスはタカラギコ事件を知っているはずだ。
タカラがギコを商標登録しようとしたおかげで抗議メールにF5アタックの集中砲火を食らったこの事件はネット発の素材の取扱の難しさを語っている。
タカラとしても、おそらくギコの使用権を独占する意図は無かったであろう。ただ、ビジネスである以上、最低限のコピーは防ぐ必要がある。
AAが公共の知的財産であり、誰でも使用できることを前提としても、誰でも使用できる以上は、タカラが商売に使用することもできるはずである。そう考えただけだ。
しかし、「金儲け」や「抜け駆け」に敏感なネット住民は強い拒否反応を示した。
この分野は法律が整備されていない。法律だけでは問題は解決しない。事実上のケアが重要だ。タカラギコ事件はそれを示した。
では、エイベックスはのまネコについて何らかのケアをしたのか。
早い話が、管理人たるひろゆきとの取引だ。
俺は多分何らかの金銭を伴う取引が存在したと考えていた。今日「のまタコ」を見るまでは。

「のまネコ」に法的な問題は無いのと同じ限度で「のまタコ」にも問題は無い。
ただ、俺に言わせればそのやり方はスマートじゃない。子供の嫌がらせレベルに過ぎない。言いたいことがあるなら、はっきりと言えばいいのに。
それはともかく、俺は「のまタコ」の公開質問状の文章に興味を持った。
この文章は言わんとする内容と、その体裁との間にギャップがありすぎる。まるで何かの雛型にそって言葉だけを置き換えたようだ。
説明文にはエイベックスのコメントを参考にしたとあるが、参考にしたのは、果たしてそれだけであろうか。もう1つ、エイベックス―ひろゆき間の取引の文章も「参考に」されているのではないだろうか。
「勝手ではございますが、7日以内でお返事が頂けない場合は黙認されたと解釈させて頂きます。」
これでエイベックスはのまネコの「モナーパート」の処理を済ませようとしたのではないだろうか。
だとしたら、事実上の紛争処理という観点からは、ちょっと妥当かどうかは疑問がある。
でかい企業のエイベックスは勝組だから、強気に出ても大丈夫という計算があろう。いや、逆になるべく出費を抑えたい事情もあるのかもしれない。いろんなことに手を出してるし。あそこ。
しかし、もう少し慎重にやるべきではなかったろうか。
ネット相手は難しいのだ。

追記 9月30日
その後の展開。
もう十分稼いだから、良いよね、ってとこか。
こーゆー勝ち逃げみたいなやり方が定着すると、逆に良くないと思うけど、対応能力がない奴相手だと仕方がないかもな。

*ついでのおまけ*
126 名前:名無しさん@6周年 投稿日:2005/10/01(土) 03:26:37 YitB/Ejs0
最近のエイベックスの件でもそうだが、2ちゃんねらーを敵に回すと怖い典型の一つだな。

しかし何でちゃねらーは味方としては頼りないんだろう・・・


130 名前:名無しさん@6周年 投稿日:2005/10/01(土) 03:28:13 uBUulJ8M0
>>126
藻前はイナゴの大群が頼りになると思うか?
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by k_penguin | 2005-09-26 17:59 | エンタテイメントと法 | Trackback(2) | Comments(2)

『笑の大学』   

毎度おなじみツタヤ半額レンタル。
今回の作品は有田哲平推薦作品。

三谷幸喜は「表現と規制」というテーマを『ラジオの時間』でも扱っている。
しかし、表現行為を制限すること(検閲にせよ、自主規制にせよ、俳優のわがままにせよ、単に、変えた方が面白いという親切からにせよ)それ自体を否定するわけではなく、そのような厳しい状況の中にある表現者達にエールを送る内容となっている。
向坂のようにちゃんと脚本を読む検閲官はいないし、椿ほど腕のある脚本家もいない。全ての制限をクリアしながら前よりも面白くなる脚本は存在しない。
向坂が最後に言う条件「笑いどころのない喜劇を書け。」が検閲の真の目的だからだ(笑うことが禁止の対象になる理由は確か『薔薇の名前』に書いてあった。なんて書いてあったか忘れたけど)。
そういう意味でこれはおとぎ話であり、昭和初期という設定、そしてレトロな色彩がおとぎ話感を盛り上げている。
ただ、舞台が元である作品だけに、取調室以外のシーンが、何となく付け足し風になってしまったのは残念。やはり舞台が似合う作品だと思う。
映画にするなら、もっとカメラワークを今風にぶんぶんしたり、想像のシーンをふんだんに盛り込んだりしてみたら、独自性が出たかも。

作品からは離れるけど、以前、2ちゃんのオク板で自分の書いた同人誌をオクで取引して貰いたくない同人作家達がぼやいていたことがあった(今でも同人板の方では多分同じ議論が繰り返されているんじゃないかな)。
理由は結構様々で、旧い作品は恥ずかしいのでなるべく出回って欲しくない、出来れば全部買い取って燃やしたい。というものから、抱えた在庫の山がまだはけていないのに!という自己中なものまで各種取りそろえられていたが、気になったのは、パロディものを書いている人達が、まるで当然のように「著作権違反が版元にばれたらどーするのだ。こっちは大迷惑だ」と憤慨していたことだった。
申し開きが出来ないほどのエロを書いているのかと思ったら、そうでもない人もいて、単に「著作権法違反」という言葉におびえているだけらしい。

法違反は法違反であるが、悪気が無い、作品の1ファンとしての作品への思いを表現したという自負があるのであれば、あとがきにでも漫画なり文章なりでその思いを表現して版元の担当者を説得してみせろ、表現者の端くれならよ。
と、思ったのだが、そんな簡単なこと自分で思いつかない奴に他人が言ってもハナから受け付けないだろうと思ったので、特に何も言わなかった。・・・いや、言ったかな?昔のことだからな。
ついでにオクでの取引禁止だって、後付にただ中古販売禁止とだけ書いて(売るときに1言注意する奴もいるらしいが)、みんな言うことを聞かないと後から文句を言うだけのしょーもない奴が多い。
他人に何か行為をして貰いたい、あるいはして貰いたくない、という場合は、心を込めてお願いをするもんだという当然のこともわからない。
ま、はじめからそんなもの読まない転売屋はどうしようもないけどな。

まーなんだ。
同人誌書いてる奴に期待しても仕方ないけど、表現者としての自覚なさ過ぎ。
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by k_penguin | 2005-09-24 22:54 | エンタ系 | Trackback | Comments(0)

『LENS』-『百色眼鏡』   

椎名林檎が原案の短編映像作品『百色眼鏡』に小林賢太郎が俳優として出演。
その設定を元にしてついでに椎名林檎の音楽を使わせてもらって小林賢太郎が作った舞台が『LENS』。
両方オープニングCGがきれいだ。いいなあ。

『LENS』を先に見たおかげで『百色眼鏡』が理解しやすかった。
つーのは、『百色眼鏡』を見た人みんなが持つはずの疑問、「で、結局天城に依頼された仕事って何だったわけ?」が『LENS』で後付けされた、あれは怪奇現象を捜査する特別捜査課であるという設定のおかげで私はスルーできたのだ。
ゆーれい相手じゃ、仕事はあって無きがごとく。出来なくってもしらばっくれときゃいいし。この設定、『百色眼鏡』に取り入れれば良かったのに。
と、いうわけで『百色眼鏡』のテーマは、恋する女は相手の望むものに姿を変える、ってことで、ひとつよしなに。テーマ自体に俺興味ないし。
コバケンは通常の3倍かっこよく撮られていた。カメラさんGJ。息吐くシーン良かったよ。
ただ、コバケンがコバケン以外の何者でもなかったのが難点。

『LENS』は最初見たとき、なんつーか、制作動機がよく判らなかったが、『百色眼鏡』を見て了解。こりゃ補完したくもなるわ。パーツが良いだけにな。
本人が劇中で認めているが、最後のツメが甘いと思った。
天城が人間ではない、という設定はNGだったのだろうか。林檎的に。そうするのが1番良いと思ったが。
でもこのシリーズ続ける気ならその設定まずいよな。
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by k_penguin | 2005-09-23 22:57 | エンタ系 | Trackback(1) | Comments(0)

ラーメンズ(その2) 自由って難しい   

連休中、ラーメンズの前半の5枚のDVD(DVD-BOX1,オンエアバトル)にすっかりはまっていた俺様がやってきましたよ。

ラーメンズのどこが好きかと言えば、何者でもない自由だった頃を思い起こさせる感じが好きだ。そんな私が、初期の名作『零の箱式』の中で最も好きなのは、実は「釣りの朝」なのだ。コバケン(小林賢太郎。彼が脚本を書き、演出もしている)は2つの世界を行き来することで、どちらにも所属しない自由な感じを出すことが多いのだが、「釣りの朝」はその、「どちらでもない何か感」を上手にすくい取っていると思うからだ。

最初にギリジン(片桐仁。織田裕二とCM頻出中)が、自分の歌う歌でコバケンが目覚めてしまったのに気が付いて「あ、ごめんね。寝てて良いから。」と言いつつも、歌を止めずに淡々と歌い続ける。
これを見たとき、ギリジンは女性という設定で演じているのかと思った。このような無神経さは女性のものだからだ。
その後も、アルミホイルを出して貰い、お礼の言葉の代わりにあきれたように「細かい」と感想を言うところや、「フィレオフィッシュを僕に買って『こさせる』。」というところなど、女性であるようなセリフが続く。
しかし、その一方でギリジンはバス釣りに出かけようとしているのであり、一人称は「僕」であり、釣り仲間に対しては完全に男性として電話をしている。
「?」が積み重なったころ、コバケンの一言で疑問は全て氷解する。
「お前は、俺の恋人だろうが。」
ギリジンはいわば男と女の中間という設定だったのだ。最初から台詞は計算されていたのだ。
そうと知って改めてこの作品を見てみると、時間は夜でもなく朝でもない「まずめ時」。
ギリジンはコバケンを釣りに連れ出そうとしているが、結局逆に釣られる。
ギリジンの歌う不条理な魚の3倍ゲームの歌が普通の部屋をどこでもない空間にあっという間に変え、とりとめのない魚のようなそうでないような話をするうちに、2人は人と人でないものの中間にいる様相さえ帯びる(普通、人は同性を恋人にはしない)。
自分が何者かを考えずにただ自分でいられる幸せな瞬間を見事に切り取っていると思う。

で、この「釣りの朝」と同じテーマをより深化させたのが『鯨』の中の「絵かき歌」、そしてそれにつながる「count」だ。
「絵かき歌」もギリジンの単調な歌から始まるが、ここでは「釣りの朝」と違い、部屋の中と外がはっきりと対立する2つの世界として描かれている。
コバケンとギリジンは人間の姿をしてはいるが、実は鯨であり、明日、鯨の姿に戻らなければならない。部屋の外の人間の社会では2人はそれぞれ別の「人格」を装っている(そういえば「釣りの朝」でもギリジンは「外」の釣り仲間に対しては男性として振舞っている)。絵かき歌の絵でいっぱいの部屋の中では2人は親子。鯨の。
なぜ鯨なのか。それは鯨が魚の形をしているが魚ではないからだ。
何者かであることを強いる社会がここでは出てきているが、コバケンはまだ幸せだ。
「北大西洋の暗くて冷たい、海。」が自分の本来の場所であり、そこに2人でまた戻れるからだ。
ドアの外から部屋の中に向かって、にやっと笑って言う最後の台詞、「チョー受ける。」が心地よい。

「日常の中の異常。異常の中の日常。」高橋幸宏がラーメンズを評した言葉だ。
2つの世界を行き来することにより、何者からも自由でいる。
それは理想であり、実現は不可能だ。断言しても良いが破綻が待っている。
だからこそ、まるで美化された思い出のような雰囲気すら持つシンプルな舞台。
これこそがラーメンズが後半よりも前半の方の評価が高い所以ではないかと思う。


ラーメンズ後半戦におけるコバケンの戦いについてはまた後ほど。DVD-BOX2まだ買ってないし。
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by k_penguin | 2005-09-20 02:57 | エンタ系 | Comments(0)

在外選挙権制限違憲判決に関する自己解決   

とゆーわけで7つめの法令違憲判決でし。

その割にはこれに関するブログ記事って少ないんだよね、今んとこ。
まあ、国際社会の緊密化とか、情報流通の発達とかいう実際上の意義を除いて純理論的に言えば、「日本人に日本の国政選挙権行使を認めましょー。」という単純な話にすぎないからだと思う。

しかし俺は初めてこれを聞いたとき、「ん?」と思ってしまった。
日本の統治権が及んでいない人に参政権を認めるって、自己統治の原則から言って、どうなん?、と、思ってしまったのだ。
「国民主権」というのは、「君主主権」に対立する点に存在意義があり、つまり、他人支配ではなく、自己支配と言うところに重点がある。自分の行動の自由を制約する規範を制定する政治機関に国民自らの意思を反映するのだ。
一方、国際法上、国家はその領域内において排他的に自由な統治を行うことが認められ、領域内の人は自国民、外国人を含め国家の管轄権に服する。だから、外国に住んでいる日本人にはその外国の統治権が及び、日本の統治権は及ばない。属地主義だ。
ただ、外国に行けば日本との縁が完全に切れてしまうわけではない。属人主義を採る法律もあるし、外交的保護という形で日本が介入することもありうる(イラク人質事件を見る限り、外交的保護権という権利があることを日本が知っているのかすら怪しいが)。

とにかく、外国にいると、日本の統治権との縁がかなり薄くなるのだ。逆に、当該外国の統治権が重要な影響を及ぼすようになってくる。
とすると、自己統治の原則を貫けば、日本の選挙権より、当該外国の選挙権を認めるべき、という帰結になる。
おやおや。これを日本に当てはめると、外国人の国政参政権の付与の話になるぢゃないか。

外国人にも国政参政権を与えるべきと唱える勇者も最近ちらほら見かける。
しかしこれは「国民主権」に反するとするのが一般だ。国民とは、国籍を有している者のことを指すからだ。つまり、ここでは属人主義だ。
要するに外国に行った以上、お客さん扱いになって当然なのだ。
お客さんはその家のしきたりに口を出せない。これが外国人の国政参政権の話。
お客さんは何年も帰らない実家のしきたりに口を挟める。これが在外選挙権の話。
自分の意思でお客に行った以上、確かにその家のしきたりに口を出せないと言えよう。
では、実家のしきたりに口を挟める実質上の根拠は何だろうか。

国内で考える限り、「国民主権」と「自己統治」は一致するが、前者が属人主義を採っているために、国際レベルで考えると、「自己統治」要素がやや抽象化される、ということかなあ。国際交通の発展を考えれば、まだ自己統治要素も強いといえるしな。
なんか、在外日本人のビミョーな立場が判ったような気がする・・・って言っていーのかな。
ビミョー。
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by k_penguin | 2005-09-16 01:52 | 裁判(判決評) | Trackback | Comments(0)

預金者保護法の行方   

預金者保護法というのは、8月の頭に成立したばっかの法律なんだけど、簡単に言えば、盗難・偽造カードによる預金引き出しの被害に関して、強い補償義務を金融機関側に求める法律だ。準占有者弁済の民法の規定を排除することにより、今までの対応からほぼ180度転換したといって良い。この辺に説明。
ゴルフ場からの盗難カードによる多額の預金引出し事件をきっかけにやたら急にできた議員立法であるし、暗証番号を誕生日に設定していても原則OKになったのはびっくりしたが、まあ、預金者が保護されているのだからいーんじゃないの、って感じの受け止め方しかしていなかった俺だが、銀行のセキュリティ関係を担当している技術屋と話をした際、この法律は矛盾していると言われて、ちょっと調べてみる気になった。

一般的にこの法律で重要視されているのは、銀行の補償義務を認める部分だが、件の技術屋が問題にしているのは、金融機関に利用者の負担にならない犯罪対策を義務付ける9条だ。
彼、いわく。犯罪対応にかかるコストの方が、カード犯罪の全損害補償額を上回る。
したがって、利用者負担を第一に考えれば、何の対策もしないでひたすら損害補償をしていった方が良い。また、いくら損害補償をしようと、保険に入っているのだから金融機関には実際上の損害は生じない。これに対して犯罪対応をすれば、それはコストとして金融機関の負担になるのであるから、回りまわっていずれは利用者に負担を負わせることになる。
彼の言うことは大体こんな趣旨だ。

確かに保険による損害填補を抜きにしてこの問題は語れないだろう。アメリカのカード社会はこの上に成立しているのだし。
今度の立法にあたって保険屋はどの程度了解しているのかは不明であるが、全く話が無いということはないと思う。少なくとも金融機関と保険屋の間で何らかの妥協が図られているはずだ。
預金者保護法の適用にあたっての金融機関側の問題は、主に預金者が何者かと共謀して盗難にあったと嘘をいうことによる取り込み詐欺対策にあるとされているが、これはつまり取り込み詐欺の場合保険がおりない、ということではないだろうか。

ただ、「犯罪対応にかかるコストの方が、カード犯罪の全損害補償額を上回る」というのは単純にはどうかと思う。生体認証導入のようなものを念頭においたのであろうが、ATM引き出し限度額の減額や暗証番号の桁数を上げるという比較的コストがかからない方法もある。実際ATM引き出し限度額の減額は近いうちに行われる。
おそらく9条は生体認証の導入までは義務付けていないと解するべきと思う。

結局、この条文は「矛盾している」とまでは言えず、むしろ犯罪防止という社会的な目的のためにある程度の負担を金融機関に求めたもの、と解するのが適当なんじゃないかと思った。

ついでに、件の技術屋は、金融機関は保険による填補で守ってもらえると言ったわけだが、俺の経験上、保険屋というのはなんか知らんけどいざそのときになるとごちゃごちゃ言い出して出し渋るものなのだ。なんか知らんけど。
たぶん今後は、裁判は保険屋が填補してくれるボーダーラインを決めるという意味合いを持つことになると思う。
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by k_penguin | 2005-09-12 15:00 | ニュース・評論 | Trackback | Comments(0)

2ちゃんより   

中二病の症例

洋楽を聞き始める
うまくもないコーヒーを飲み始める
やさぐれる
眠れない午前2時
苛立ちがドアを叩く
「サラリーマンにだけはなりたくねーよなぁ」
売れたバンドを「売れる前から知っている」とムキになる。
「因数分解が何の役に立つんだよ」
「大人は汚い」
母親が何か言おうとしよう物なら、その声にかぶるように「わかったよ!!」と言って聞かない。
本当の親友探しを始めたりする。
やればできると思っている。
お母さんに対して激昂して「プライバシーを尊重してくれ」と。
タバコも吸わないのにジッポライターを持つ。
社会の勉強をある程度して歴史に詳しくなると「アメリカって汚いよな」と急に言い出す。
急に洋服のトータルバランスはそのままなのにジェルを使い出す。
曲も作れねーくせに作詞
プロに対して評価が辛い。
「僕は僕で誰かじゃない」と言い出す。
「ジャンプなんてもう卒業じゃん?」って言ってヤングジャンプに軟着陸する。
環境問題に積極的になり、即絶望。
母親に「どこ行くの?」と聞かれて、「外」
赤川次郎あたりを読んで自分は読書家だと思い込む。
林間学校に来てまでタバコを吸う。
プラモデルやプロ野球カードなどこれまで自分がコレクションしていた物が物凄く子供っぽく見えるようになり、急に処分する。
サングラスを買う
自分の家族を友達に見られたくない
DoCoMoを無根拠に嫌う
法律の意味もよく分からないけどとりあえずJASRACを批判しておく
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by k_penguin | 2005-09-10 23:12 | 拾いもの | Trackback | Comments(2)

『オールド・ボーイ』   

Nobody Knows さん&近所の理髪店のねーちゃん推薦作品。

理髪店のねーちゃん談「北野武なんて眼じゃない!」
で、観てみたけど、北野武と比較するよりかタランティーノ『レザボア・ドッグス』あたりと比較した方が良いと思った。
実は俺はあーゆう痛いやつは苦手で、『レザボア・ドッグス』なんか、最終的に「な、泣くぞこのやろう!」って感じになってしまったんだけど、この作品も正直苦手で、残念ながら評価はあまり高くない。

まず主人公は、なんだかわからないけど監禁されるのだ。
んでもって、15年かけて脱出口を掘るのだ。
ここで、俺はモンテ・クリスト伯だなって思ってわくわくした。これからフクシューするのだ。エドモン・ダンテスは徳川埋蔵金を掘り当てたけど(記憶に混乱がある)、この人は資金はどうするのかな?
ところが、驚いたことに脱走の直前に解放されちゃうのだ。しかも、お金までもらえちゃうのだ。
正直ここでがっかりした。ここまでお膳立てされていては、フクシューが誰の意志に基づいているのかわからなくなる。

最初から最後までがっちり仕組まれていて、抜け出そうとしても結局そこから抜け出せないっていうパターンの話はめずらしくない。昔は「運命vs人間」だったけど、最近は「なんかわかんない組織vs個人」ってパターンに変わったが。
こーゆーのをギリシャ悲劇的パターンというのだとどっかで習った(そーいえばオイディプス王も近親相姦だった)。
で、こういう話は、多分主人公に感情移入して主人公に寄り添う立場で見るべきなんだろうけど、基本的な疑問「なぜ解放されたのか」をすっ飛ばして行動している人はどーもシナリオ通り動いているだけって感じがして、不信感を抱いてしまったのだ。
おまけに料理人のねーちゃんウザくて、絶対後でガンになるって感じしたらビンゴだし、結局、これらの疑問にばっちり答えてくれる敵さんが一番えらいって結論になってしまった。
だって、この話で最も自分の意思に基いて行動しているのは、敵さんだからだ。会社をほっといて自殺しちゃうあたり、経営者としてはどーかと思うが。
ラストシーンを見ながらの独り言
「結局、長いものには巻かれろってこと?」

漫画チックな乾いた表現なんかは結構良いと思ったんだけどなあ。
韓国のCG表現って、日本より無機的なんだな。

あと関係ないけど、蟻の幻影なら俺も昔見たことがある。
頭だけがアリで、身体は女の子。フリルのドレスを着て部屋の隅で手を見つめていた。
シルエットのようなぼんやりした感じだったな。
その後、坂本龍一の『音楽図鑑』のジャケットを見たとき、これこれって思った。
アリを見る人って結構いるのかも。
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by k_penguin | 2005-09-04 23:55 | エンタ系 | Trackback(1) | Comments(4)