『TEXT』Act.3 誤植のない新聞(常磐視点)

*追記 3月14日*
一部改訂する必要があると判断しました。
ただし、前の解釈も一つの解釈として残しておくのも面白いかと思ったので、修正の過程をそのまま残します。
削除される部分には、線が引かれます。
新たに付け加えた部分は、【】でくくります。

前回、金村の視点で話をとらえてみた。
そして、金村は自分で自分の存在を望むだけの力を持たないので、その存在は常磐に依存していること、常磐を殴ることが金村の初めてで精一杯の自己主張であったのに、常磐は無反応であったため、【しかし、常磐に拒否されたため】金村は去っていったことまで述べた。

今回は常盤の視点からこの話を見る。
前回書いたあらすじの主に3番目の部分に関わる。



この部分は、金村がいた2番目のシーンとほとんどが同じ台詞、動作なのだが、一カ所違うところがある。
2番目のシーンでは、金村が殴ったことに対して【揺さぶって働きかけたことに対して】常磐は無反応だが、3番目のシーンでは「痛いっ!」と頭を押さえる点だ。
2番目と3番目のシーンを、見ている者の視点を違えて同じ事実をとらえたものと解釈すると、これは常磐が痛いと思っていたのに、金村はそれを認識しなかった、要するに、常磐は、痛くないふりをしていたということになる。
一人しかいないのに、無理に痛くないふりをする必要はない。
つまり、殴られたときに常磐は、金村の存在に気づいたのだ。
気づきながらわざと無視したのだ。
しかし、なぜ?

【つまり、常磐は、金村の存在に気づいていないわけではないのだ。
その意味で、金村は不透明度が0.0の完全な透明人間ではなく、かといって、完全に認識されている不透明度1.0の不透明人間でもない、0<金村<1ということになる(透明人間の「透明度」の話は3番目のネタでなされている)。
不透明度が0.0でないなら、気づいても良さそうなものなのに、なぜ常磐は金村に気づいてやれなかったのだろうか?】

常磐はよく誤植をして、新聞の記事の意味を変えてしまう。
常磐の周りは誤解だらけだ。牛乳屋ともまともに意思の疎通ができないし、母親もなんだかわけが分からない(同居している女性というものは、よくああいう思わせぶりな喋りをする、と、俺は思う)。
常磐は誤解のない表現にあこがれている。だから、列車の中で誤植が全くない新聞を見つけ、いたく感心する。
全く誤植がない新聞。つまり、全く誤解のない表現。
しかし、絶対的に誤解のない表現など、ありうるだろうか。言葉を使う以上、誤解の可能性は必ずつきまとう。
絶対的に誤解のない表現とは、何も言わないことではないのか。
誤植のない新聞とは、言葉のない、真っ白な新聞なのではないだろうか(小道具の新聞は実際に真っ白だ)。

金村は、自分が常磐に伝わっていない、と思った。
しかし、実際は、「金村が常磐に伝わっていること」が、金村に伝わっていなかったのだ。常磐が発信しなかったから。
何も発信しなければ決して誤解は生まれないと常磐が考えていたためだ。それほどまでに常磐は金村に誤解されることを恐れている。

【完璧を求める常磐にとって、1でないものは総て0だ。だから金村に気がつかない。】
誤解を恐れるあまり、常磐は総てから閉じてしまっているのだ
だとすると、透明人間なのは、むしろ常磐ということになる。

誤解のない、完璧なコミュニケーションとは、言葉のないコミュニケーションである。
しかし、完璧を求めるあまり、「言葉を使っちゃいけない条例」なぞを出すと、暴動が起きてしまう。
完璧なコミュニケーションなんて、そうそう成立するものではないのだ(だからこそ我々は不完全だが便利な「言葉」を使う)。
言葉のないコミュニケーションは、自分の思いのありったけを込めてやらなくてはいけないし、それでも思いが通じるかどうかは運任せの部分が大きい。本当に伝わっているかどうかの確認も難しい(「言葉を使っちゃいけない条例」の作品で実際にどんな様になるかは分かると思う)。
言葉のないコミュニケーションは、リスクが大きく、そして、痛い。
特に金村に誤解されたくない常磐は、ますます身動きが取れなくなる。

そんな常磐を金村は殴った。
最初で最後の、言葉のない表現。


それは常磐には痛かった。痛くない振りはしていたが、やはり痛かった。
何か言葉にできないものが伝わったのは確かだろう。
金村が透明人間でない証拠は、その痛みだけ。
放っておけば、時間の経過と共に消えてしまうだろう。
常磐が伝わったことを金村に伝え返すことが出来れば、金村は「不」透明人間になれる。ただ、それは誤解のリスクをともなう。誤解されるくらいなら何も伝えない方がましと思ってきたのに。
常磐は何らかの行動を起こすことが出来るのであろうか。
彼は、立ち上がり、窓を開ける。

【金村は常磐に伝わったのか。
透明度が0と1の間の透明人間にたたかれた程度の痛さ、は、伝わったといえるのか。
すべてを乗せたまま、列車は走り続ける。】

話はそこで終わる。

これが常盤視点で見た話だ。
異論もあるだろうが、少なくとも私はこのようにとらえた。
他の作品との関連性からしても、この解釈は大きく外れるものではないと思う。



なお、ここで心配なのは、金村が去ってしまった以上、常磐はもう手の打ちようがないのではないか、ということだが、これに関しては、馬券が残っているのでまだ希望は残る、と思う。
馬券があるということは、馬(ゴールデンボール)とジョッキーの馬坂さんが居るということだからだ。
(理由になってないのは分かっているのだが、常盤視点の話は、金村視点と比べて、心象風景スケッチ的で、イメージでつなげる感じなので、「そーゆー風に感じたからそうなんだ」ということで勘弁してもらいたい【また、去り際のプレゼントは、大概、去る者の本質が化体された物である】)。
まあ、そうだとしても大してあてにならない希望かもしれない。
なんといっても、連中、かすりもしない奴らだから。


関連ついでに「馬と馬坂さん」(『TEXT』5番目の作品)につき述べる。
内容は「たかしと父さん」であるが、シチュエーションが変わったために、作品全体の意味合いが変わった、と感じた。
ジョッキーの馬坂さんは、馬(ゴールデンボール)に出走してもらいたいのだ。
今までの、単にかまって欲しいだけのたかしの父さんと違い、一緒に行動して欲しい、という働きかけの意味合いが出てきている。

・・・まあ、本当にそう思っているのかどうか行動を見ているうちに怪しくなってくるが。


*追記 3月14日*
2種類の解釈を併存させる結果となりました。
後からまとめの評論を書くかもしれませんが、とりあえず、2種類出た言い訳を書きます。

常磐が「痛い」という原因となった金村の行動が、常磐から独立した怒りの行動か、それとも常磐に「俺に気がついてくれ」と揺さぶるにとどまるか、で解釈が変わります。
最初書いた解釈が前者のもので、修正後が後者のものです。

前者か後者かは程度問題ともいえ、演じる時の匙加減で変化しうるのですが、少なくとも作者はどちらかと言えば後者のつもりで作っているようです。
前者であれば、俺はここに存在していない、と言った後に金村は常磐を殴るはずですが、脚本は逆で、殴った後に存在していない、と言うからです。
ただ、少なくとも公演の最初のうちはかなりしっかり殴るように片桐さんに指示が出ていたと思われますので、仮に作者が意識していないとしても、前者の解釈は否定されるべきではない、と考えます。

前者の解釈はコバケンにすれば、多分、不透明度が高すぎるんじゃないかと思いますが、私に言わせれば、これでもまだ透明度が高いです。

なんにせよ、作者自身が透明度を強めたり弱めたりしつつ揺らいでいる状態にあると考えられます。

4月8日
『TEXT』Act.4 表現できない、価値あるもの
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Commented by takano at 2007-02-23 05:33 x
>馬券があるということは、馬(ゴールデンボール)とジョッキーの馬坂さんが居るということだからだ。
あ、これ、なんとなく分かります(笑)
あのコントが、あの二人と同じ世界で展開してるっていう設定が、妙に救いになっているというか、不思議と安心させるんですよね。

私がちょっと気になったのは、「牛乳屋遠いなー!」です。もしかすると、常盤の乗った列車も、永遠に牛乳屋には着かない、この世のどこにもない非現実の世界を走っていたんじゃないかな、と。

>絶対的に誤解のない表現とは、何も言わないことではないのか。
今回は全体的に、言葉の接触不良のようなものがテーマだったんでしょうか…
Commented by k_penguin at 2007-02-23 20:49
「馬と馬坂さん」は、新しい方向を示唆していると思います。
なんとなく。

>「牛乳屋遠いなー!」
 あー、そうにも受け取れますねえ。
私はこれを言った常盤の声の調子が、
  _, ._
( ゚ Д゚)牛乳屋遠いなー!

だったので、不安な感じはうけず、
そんなに遠けりゃ、確かに配達は面倒だろうな、と、思ったくらいでした。

>今回は全体的に、言葉の接触不良のようなものがテーマだったんでしょうか…
 うーん、言葉の接触不良にとどまらず、言葉で表現できないものを伝えること、という積極的、かつ、無謀なことがテーマに近いと思います。

今のところ全然まとまっていなくて、どうも散文的なコメントしかでないのですが・・・。
Commented by PARU at 2007-03-13 12:29 x
2回目のコメントです。
TEXTの解析 楽しみにまってました。やっと私が行く予定にしていた公演の全てが終わったのでゆっくり拝見いたしました。

初めてみたときは私は、「もう終わりだ・・ラーメンズこれが最後なのか?」と銀河劇場を半泣きで後にして、一緒に行った友人にまで巻き込んでしまったものです。
でも、よく考えてみると、常盤が殴られたあと『ずっと誰かと一緒だった気がする』との台詞。私は過去形なので、未来を否定しちゃうのかと思いましたけど、結論でないままに電車は進んでいって、つづく・・・のか。と思いなおせるようになりました。
今回の作品、ピタゴラスイッチのアルゴリズム体操をまんま言葉でやってるように感じました。ひとつでは意味のなさそうな文章でも、固まって重ねていくと大きな流れになる感じが。
言葉の中では、常識も非常識に、存在するものもしないものに。逆もしかり。結果導き出されたものなんて、実にあいまいで頼りないものででも、何か伝わっている。 ああ気持ち悪い、なんていったらいいんでしょうか。
>言葉で表現できないものを伝えること、という積極的、かつ、無謀なことがテーマ
私もそう思いました。
Commented by k_penguin at 2007-03-13 19:54
PARUさん、コメントありがとうございます。

Act2の方に走り書きの追記をしたのですが、この評論は、コバケンの意図よりも先走ってしまったようです。
金村が積極的に常磐を殴っていることを前提として評論を書いたのですが、どうもそこまで積極的なことはしていないらしく、「俺に気がついてくれ」と、揺さぶるにとどまっているからです。

PARUさんの言う「結論でないままに電車は進んでいって、つづく・・・」の方が彼の意図に沿っていると思います。
透明と不透明の間を、たゆたっている状態、を表現したにとどまり、
「言葉で表現できないものを伝える」というほどには積極性はないようです。

やれやれ、後で書き直しをしなくては。
by k_penguin | 2007-02-21 01:30 | エンタ系 | Comments(4)

法律事務所勤務。現代アート、NHK教育幼児番組、お笑いが好きな50代。


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