シュワンクマイエルvs小林賢太郎

ツタヤの半額レンタルの際に、せっきー。さんお勧め、ヤン・シュワンクマイエルをほぼ制覇した。
クレイやコマ撮りの技術が高いのはいうまでもなく(何fpsで撮ってるんだろう?)、演出技術も高い。長編物なんてほとんど話わけわかんねーのに最後まで見させてしまう。

技術のことは置いといて、表現として気がついたことは、社会主義国においてはシュルレアリズムって政治的メッセージを隠す方法として使われていたんだってこと。
いや、知らんけどさ、30年以上前のチェコの政治事情なんて。
でも、政治的な内容だってことは、何となくわかる。いつでもどこでも、政治屋のやることは似たりよったりだからだ。
直接的な表現が禁止されているから、シュルレアリズムがその抜け道として使われているのだ。
ラテンアメリカで魔術的リアリズムが発展しているのも、これと似た事情があるのかも。
現代日本に住んでる俺が今まで抱いていたイメージとしては、シュルレアリズムって、意外性だけが命の、中身のないお遊びって感じだったけど、それはそんな苦労してまで表現することが特にないからだったのねん。
そんなわけで、身近な日用品や粘土で遊んでいるような外見なのに、社会性を感じるってとこが面白かった。




んで、小林賢太郎だ。
前にコメントで彼の作品のわからなさを表現して「拗ねている少年」と書いたことがある。
で、そう書いた後で「まあクリエーターなんてみんな拗ねている少年ですが」と、付け足した。
付け足したのは、拗ねている少年というだけでは、作品を評価するポイントにはならない、と言いたかったからだ。
拗ねている少年のようなわかりにくさを持った作品というのは珍しくはない。
特に最近のジャパニメーション作品にその傾向を見ることが多いし、『マトリックス』シリーズなんかも俺はこの流れに位置づけている。
いきなりすっ飛ぶストーリー展開、暗号のような思わせぶりな台詞、背後に何気なくいるキャラクター、なんかしらのオマージュ的シーン、等々。
しかし、せっかく布にくるんでも、その動きを見れば大体、中に入っているのは、猫か犬だな、とか分かるものなのだ。
まあ、率直に言えば、拗ねている少年が言いたいことなんて1つしかない。
「僕を、愛して。」
見せられた方はぼやくしかない。
「パパンだかママンだか知らないけど、そーゆーことは家で直接当人に言えよ。」
暗号や謎の地図でさんざん思わせぶりにした挙げ句、宝箱の中身は石ころ、というわけ。

拗ねている少年型の作品は本質的に愚痴だ。自分中心に、自分の関わる範囲でしか物を見ていない。
自分個人の重大事が世界の中で最も大きな事件となる。
小林賢太郎の作品も基本的にこの類型にはいる。従って、本来であれば俺の興味を引く類型ではないはずだ。
ただ、奇妙なのは、彼の作品からは、ある種の社会性といってもいいものを感じるのだ。

シュワンクマイエルは30年以上前のチェコにおける政治的メッセージを隠し、拗ねている少年型作品は個人的メッセージを隠す。
こちらとしては隠しているメッセージに興味のないことについては同程度だ。
それなのにシュワンクマイエルの作品の方に魅力を感じる理由はどこにあるかというと、表現への強い希求が感じられるからだ。
弾圧のために、このような表現方法をとらざるを得ない事への怒りや、このような表現であっても真意をくみ取ってほしいという強い願い。
外部からの圧力が加わっているので表現への欲求は純粋に強いものとなっていて、それを社会性と俺はとらえている。
それに対して、拗ねている少年は、所詮愚痴っているにすぎないので、自分の内部で表現するかしないかの葛藤が起きている。
言っている本人も愚痴がみっともないことくらい知っているためこうなるのであるが、結局表現としては弱いものになる。

小林賢太郎は本質的に独り言を言っているのにすぎないのに、なぜか表現は純粋に強い。
彼の作品には、無駄な言葉や言いよどみがなく、キャラクターは盤上のチェスの駒のように暗黙のルールに従って直線的に動く。
表現への欲求が純粋に強いということは、表現することについての葛藤は彼の内部で起きていないということだ。
つまり、真意を隠さなくてはならない事情は外部的な事情に起因している、と、彼が判断している、ということだ。
その事情が何であるかは分からない。
従って、その事情が真に「外部的」なのか、彼が「外部的」だと一人で思いこんでいるだけなのかも分からない。
だって、ここは2006年の日本だぜ。1970年のチェコじゃない。なんでもありの自由な国家。ネットがあるから個人だって、ネットカフェから匿名で好き放題ものが言える。表現できないって、どんな事情よ?

と、ここまで書いて、俺はため息をつく。

自分は書きたいことをすべてこのブログに書いているか?
オフラインの日記からここにコピペするにあたっても、削除される部分があるのが通常だ。飲み屋でだべる分には不都合ない話でも、多くの人の目に触れるネットには書けないネタというものもある。
所詮ネットに書く話と、飲み屋でだべる話は事の性質が違う、ということでそれ以上の意味はないことだが。
飲み屋でだべっていても、秘密警察にたれ込まれてしまう1970年のチェコと比べるのはおこがましいことだ。
でも、言えないことって、いつでもどこでも、やっぱりあるのだ。


なお、赤の他人が口出しすることではないので、追記的に書き加えるにとどめるが、小林賢太郎の抱える面倒事については、当人よりも、むしろ周囲に問題があるのでは、と、疑っている。
一般の客ならともかく、まさか、周囲の者全員が、彼の「ラーメンズ解散のリアル嘘」が、「外は土砂降り」なんぞと同じレベルの小林氏の気まぐれ、もしくは「何かイヤな事でもあったんですか」だと考えていたとしたら、かなり問題があると思う。
普通に考えても、コンビを解散するという重大事を突然客の前で言い出すのはいくらなんでも異常なことで、「何かイヤな事」ですまされない理由がある、と思うべきだ(この一件はWikiにまで載っている)。

 そう。俺は、あれは嘘ではなかったと推測しているのだ。
 舞台に戻ってきて、「嘘だよっ!」と言った瞬間に、彼は巨大な荷物を背負い込んだ。
 書けないのに、書かなければならないという荷物。
 そしてその事実を知られてはならないという荷物。
 だから、それ以降の彼の作品では、お話の「破壊度」が急に大きくなっている。
 そして、書けない自分を受け入れなかった客に対する悪意が時々作品上に顔を出す。
 客を憎むのは筋違いだ。しかも事態をより悪化させる。
 知っている。私も。彼も。
 でも、どうすれば?
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by k_penguin | 2006-08-01 02:14 | エンタ系 | Comments(4)
Commented by せっきー。 at 2006-08-23 11:00 x
久しぶりにこちらにお邪魔させていただき、トップに自分の名があり驚きました(笑)
御覧になったのですね。私、まだ全制覇しておりません。凄い。

シュールレアリスムの最大の価値は「無意識」の発見だと思います。「無意識」という意識がそれまでは認知されていなかったということです。
ここで語るのは難しいのですが、舞台では野田秀樹など、意味のない羅列に意味がある。第三舞台・鴻上さんの喜劇の中の悲劇/悲劇の中の喜劇など、相反する作用がある。という事。
物事は背中合わせになっていると言う事。

コバケンもきっと何らかの意味が含まれているのでしょうが、それが何かは・・・はてさて。
Commented by k_penguin at 2006-08-23 21:33
シュワンクマイエルは、とりあえず新宿ツタヤに並んでるやつを全部見ました。
確か木の根っこ育てるやつをトリウッドでやってたような気がするけど、あれは見てません。

>シュールレアリスムの最大の価値は「無意識」の発見だと思います。
うーん、それはよくわかんないけど、「物事は背中合わせになっている」っていうのは、なんとなくわかります。
シュールレアリスム系の作品って、作者の内面の世界がもろに出ちゃうから、何か人格勝負みたいなとこがあってキツイなって思いました。
Commented by yuma at 2010-02-28 00:09 x
超今さらですが
あちこち納得したのでコメント残します

シュワンクマイエルも観てみたいですが
田舎のTSUTAYAにはないかもなぁ・・・(´Д`)
Commented by k_penguin at 2010-02-28 18:13
自分も記事読み直してみました。
・・・今よりずっと内容が濃いorz

シュワンクマイエルはネットでいくらか見られるようですね。
濃ゆいので、長編はきついかも・・・。
「庭園」という短編は好きです。
コメントで言ってた「木の根っこ育てるやつ」(「オテサーネク 妄想の子供」)も、その後、見ましたが、
うーん、そこそこ。