ポツネン「○maru」その2(2/2) もうダメ出しの次元じゃない

1/2はこっち
ライブポツネンのシリーズは、「傷祓いの儀式」だ。
この言葉は、朝日新聞で山崎浩一が使っていたのを拝借した。
身体に負った傷を手当てするように、心に負った傷を「祓う」ために、「それを物語や音楽にしてみたり、文章にしてみたり。見えないものに形を与えて、それを<新たな世界>として受け入れ直す。」
無意識のうちにこのようなことを行う人は何も芸術家でなくとも多い。
何かあったときに親しい友人にグチったり、ブログにまとめてみたり。他人に聞かせるために客観的に出来事をまとめ、話したり、書いたりすることにより、自分なりに納得する。
また、一般に眼にする作品のうちでもこのような性質を併せ持つ作品は多い。そういう性質を持っていない作品を探す方が難しいほどだ。
ただ、ライブポツネンは、いや、コバケンの作品は全て「傷祓いの儀式」としての純理性が重視され、他の要素がそのための犠牲になっているのだ。
だから彼の作品はすべて自分のために作られていたし、だから彼は表現としての「枠」を良い意味でも悪い意味でも平気で無視したのだ。
TVが苦手だったのも、商業主義と儀式は両立しにくく、舞台の方が儀式が成立しやすいからだ。



通常人がこれをやればそれは「チラシの裏にでも書いてろボケ、他人に見せるな、こちとら暇じゃねーんだ」と言われるが、そこを彼はありとあらゆるごまかしのテクニックで切り抜けてきた。
だから彼の作品は「コント」でなければならなかった。チラシの裏が作品として成立するには、エログロナンセンスのどれかでなければならないからだ。
従って、彼にとって、芸術とは、「自分の傷を祓う力をもつもの」だ。才能とは「祓う力」だ。

この観点からすれば、「○」の最後の作品は非常にシンプルなものになる(彼の作品は実は全部シンプルだ)。
表現を止めろとささやき続けるのは彼の中で大きくなり続ける「○」、つまり傷そのものだ。
作る度に逆境に陥るはずだ。彼自身が逆境を招いているのだから。
○は傷祓いとしての表現を産み、彼は表現を産む○を愛した。てゆーか、愛が○を産んだのだ。いや、やっぱ逆か?もう卵と鶏だ。
しかし○は大きくなりすぎた。「止める」とは、「もう祓いきれない」ということだ。当然祓うのを止めたとき、彼は死ぬ。
この作品の二重構造の内側で、彼は1人静かに全てを諦め、○に身を委ねたのだ。だから○は去ったのだ。
作品としては、全く救いはない。
それでも不思議なことに、全てを諦めた彼が雪だるまを作り出すシーンは優しい。
全てを失った彼を最後に動かすものこそが、表現することのみを望む純粋な表現者の魂だからだ。
そしてその無邪気な魂が表現した作品が、寂しい少年の1人遊びであり、遊び疲れて母親の胸で眠る姿だったということが、私はひたすらに悲しい。

さて、この作品が「傷祓い」だとすれば、作品の良し悪しの判定基準は「祓えたかどうか」になる。
もう赤の他人が判定するようなものではないが、それを承知で無理やり判定すると、可能性はなくはない、と思うのだ(途中の手順を1つすっ飛ばして儀式を完了させてしまったことが気にかかる)。
彼は表現を諦めたとき、「疲れた」とは言わなかった。「○が完成したから」と言った。
彼は自分相手に戦うのは止めたが、絶望はしていない。
少年の瞳で新しいテーマを見つけることができるであろうか。
この作品の良し悪しは、それで決まる。


・・・と、ゆーわけで、
よいこのみんなはこーゆー作品の真似しちゃダメだよ。
見る側が無駄にしんどいからね。


追記
ちょっと思ったんだけど、「TAKE OFF」って、飛び立ちたいんだけど、なんか3番目が逆境を作るせいで飛べないって話になるんじゃねーかな。
この流れからするとそんな感じになると思うが。

追記その2 6月9日「TAKE OFF」観覧後
↑ 外したな、と。
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by k_penguin | 2006-03-22 00:07 | エンタ系 | Comments(9)

Commented by K☆SAKABE at 2009-05-25 13:40 x
お言葉に甘えて、こちらで吠えさせていただきます。

私の敗因は、これをDVDで繰り返し見てしまったことなんです。
最初は私も、「何だこれ?」って思いながらも、そうフランダースのネロ(そんなものは居ない)のごとく、「安らかな世界へ昇天したんだな」と、単純にめでたしめでたしだったんですよ。
でもね、これを2度3度見ていくうちに見えてしまったんですよ、小林賢太郎の右手が。
○(ここでは雪だるまなんですけど)の絵描きを抱きかかえる手が、絵描きの手でも、雪だるまの手でもなく、小林賢太郎のパントマイムにしか見えなくなったんです。
これは私の個人的な感想にしか過ぎないってことはわかっています。
でも、そう見えてしまった以上、絵描き(小林自身?)は救われていないんですよ。
ただ自分の殻に閉じこもってしまっただけ。
否定されたことで、心を閉ざしてしまっただけにしか見えなくて、それからこのDVDは私てきにはNGなんです。
私の解釈が間違っていることは承知しています。
作り手が、伝えようとしていることは(多分そんな気はさらさら無いと思いますが)そうじゃないってことぐらいわかります。
Commented by K☆SAKABE at 2009-05-25 13:57 x
(つづき)
ただし小林賢太郎の中で、絵描きを、言わば小林賢太郎を抱き寄せるのは、確かに彼の右手だという様式は覆しようの無い事実なんです。
そんな風に考え始めると、もう「負」のスパイラルですよ。
良い方になんて考えが及ばない。
右手が見えた瞬間、全身の鳥肌と、わかのわからない涙がドーと・・・

こんな風に病んだ見方をしてしまうにはもう病気なんですかね。

オンバトのころの、何の情報もなく、純粋に「こいつらおもしろい」って笑って見てられたころが懐かしいです。
Commented by K☆SAKABE at 2009-05-25 14:30 x
パントマイムは、小林賢太郎としては、楽な表現方法だと思うんですね。
なにせ一人でどうにでもできるし、マイムの様式はある程度その世界で確立されているわけで、新しく創り出す必要がないですからね。
手品みたいに、絶対そうならないといけないというお約束も無い。
失敗してもごまかせるんです。
だから、多用してるんでしょうね。
逃避ですね。
そのうえ一人二役。
これは彼の得意技で、声のトーンと表情をたくみに変化させることで、もう一人を表現して完璧な二人を作り上げる。
どちらも小林賢太郎ではないと言う大前提のもと。
自分ではそうやって、内面を覆い隠しているつもりなんでしょうけど、
見ているこっちとしては、「もっと上手に隠せよ!」て言いたくなるんですよ。
Commented by K☆SAKABE at 2009-05-25 14:39 x
それが「雪」か?

どこかで、真っ白に降り積もる雪への憧れがあったのかな?
汚いものも、見たくないものも、すべてが真っ白な雪景色になることが、彼(小林本人)の望みだったってことですかね。
今、はたと思いました。

なんだかつくづく疲れる奴だなあ・・・
Commented by K☆SAKABE at 2009-05-25 17:08 x
すみません。
個人的な感想をこの期に及んで長々と・・・

だから無理やり絵描きは死んだんだと思い込みたいんですよね。
それが一番安らかじゃないですか。
眠りから覚めたとき、彼には辛い現実しかないんです。
現実と向き合って生きるには、この絵描きは弱すぎる。

でも、小林賢太郎には現実世界で生きていてほしい。

どんなに現実逃避してもいいから、「負けましたごめんなさい」って言わなくていいから、笑えないコントをどんどん量産してくれてかまわないから、生きててください。
願いはそれだけです。
Commented by k_penguin at 2009-05-25 22:04
K☆SAKABEさん
吠え声、ありがとうございます。確かにいただきました♪

あの話で、最後の雪だるま作りはあくまで絵かきの1人遊びだから、
雪だるまの手が絵描き(小林)の手に見えても良いんじゃないでしょうか。
ワタシも雪だるまとのあっちむいてホイが、1人の両手じゃんけん(だから結果が最初からわかっている)というところに疑問を持ちましたし。

ただ、自分の中に閉じこもったとしても、
自分の内側に向かっていって、その奥の奥、最後の底に何があるのか、
それを提示すれば作品としてはオケと思います。
それがなかった。
いや本当に「ない」のかもしれない。
ただ誰かに抱きしめてもらいたいだけ、それだけで表現をしているのかもしれない。
(でも抱きしめてもらえていないから自分でやっている)
それならそれでいいから、ちゃんと提示して欲しかった。

まあ結局
何でも良いから生きててください

という感想になっちゃうんですよねー。
生きてりゃ、あと最低でも1回チャンスあると思うんですよねー。
変わるチャンスが。
Commented by k_penguin at 2009-05-25 22:04
なお、「雪だるま」について、後から思いついたことがあるので、これを機会に書いておきます。
雪だるまを白い「丸」というのは、ちょっと違う。
最初見たときにそう思いました。
雪だるまは、白い丸2つから出来ていますから。
でも、白い丸1つを「雪だるま」という場合が1つあるんですよ。
「雪だるま式の嘘」という場合です。
だとすると、
彼は自分がついてきた嘘に耐えかね、嘘に抱かれて死ぬことになります。
「嘘」はコバケンのキーワードの1つでもあるので、この解釈も「あり」かと思ってます。
Commented at 2009-05-26 00:49 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by k_penguin at 2009-05-26 13:23
私達が1人で悶々としても、小林賢太郎には何の影響も与えないわけですが、
悶々とすること自体は無駄じゃないと私は思っています。

このブログが皆さんの
なおのこと悶々とするきっかけになって、
そして最終的に悶々が雲散霧消するきっかけになれば幸いです。

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