ポツネン「○maru」その2(1/2) それが何だか分からない

小林賢太郎へのダメ出しが難しいのは、「作るものが何に分類されるものかよく分からない。」という点にある。それが何だか分からないから、良し悪しの判定基準が分からないのだ。ダメ出しを繰り返しても、何か真芯をとらえていないという気がする。
彼が作る物がコントであるとするなら、「笑えるかどうか」だけが問題で、作品のテーマ性とかは関係ない。シティボーイズの舞台に「テーマが分からない」というダメ出しをするのは、ずれているということだ。
そしてコントとして判定すれば、コバケンの作品には大笑いはないし、笑うというよりか「へえーへえーへえー」という感じが多いので、それは「よろしくない」作品ということになる。
彼は前口上のチラシで、笑いにも種類がある、と言っていたが、どれが笑いかを判定するのは客だ。そして通常の客は大笑いするためにコントを見るのであって、へえボタンを押しに行くのではない。彼の言葉を使って言えば、「行列の出来るラーメン屋のうまさもあるし カップラーメンが異常にうまいこともある」けれど、行列の出来るラーメン屋でカップラーメンをまんま出されれば、それがいかに美味しくても客は怒るということだ。
彼が自分の作る物が「コント」だというのは、テーマについて深く考えてくれるな、という意味であろうが、彼の作品は、確かに何かを訴えかけている。その何かを無視するわけにはいかない。

コントではなく、笑える要素の強い、テーマのある作品ということになれば、「そのテーマがよりよく伝わっているか」が判定基準となる。当然テーマが何かを知らなければならない。
表現する側は、テーマはなるべくシンプルに、そして明確に打ち出す。もちろん分かりやすくするためだ。テーマのそぎ落としも表現の腕のうち。言いたいことを我慢するのも表現なのだ。

とりあえず、この基準で今回の「○」から、ストーリー性のある2作にダメ出ししてみよう。



まず、白やぎさんと黒やぎさんの話。
ご家庭のTV用回転台の上に座布団を敷き、右半分が黒、左半分が白のスーツのいでたちで、白やぎさんと黒やぎさんの往復書簡。手ぬぐいを手紙に見立てて落語スタイル。
「木綿のハンカチーフ」を口ずさみながら白やぎさんは都会に出る。
徐々に都会に染まり、ヒョウ柄を着込む白やぎさん。黒やぎさんは白やぎさんの手紙に愚直に感心することしきり。
ギョーカイの大物?赤やぎさんの手下になった白やぎさんは、本当は貧乏だった。黒やぎさんから来る手紙を全て読まずに食べてしまうほど。
せっぱ詰まった彼は黒やぎさんを都会に呼び寄せ、赤やぎさんの餌食にしようとする。
しかしやっぱり最後は友情を取り、黒やぎさんに懺悔する白やぎさん。
「ごめんなさい。僕は君に嘘をついてた。君にチャンスを与えられなかった。都会は華やかだけど寂しい。君がいないから。僕を許して。君がいないと僕はダメなんだ。」
愚直なまま許す黒やぎさん。
赤やぎさんもドジ踏んだらしくて没落した。てゆーか、赤やぎさんは実はあかべこでした。
めでたしめでたし。

「良くない点」ははっきりしている。
白やぎさんは黒やぎさんを騙してどうしようとしていたのか、つまり、赤やぎさんの被害者はどういう末路をたどるのかがわからないことだ。
これがはっきりしないと、黒やぎさんの許しに説得力がでない。「こんなひどいことしようとしてたのに、許してくれる」ってゆーのがないと。
しかし、ここであらためて考えてみよう。
1人2役で許してるってことは、つまりは自分で自分を許しているということだから、構造的に言って最初から説得力がないのだ。許す、という行為は他人がやらないと本物にはならない。
この辺、「レストランそれぞれ」(『Cherry Blossom Front 345』)で、2人5役をめまぐるしくやりながら、最後に、「その人がその人であるということが大事なんだね。」と白々しい台詞を言うことのできる彼ならば知っているはずだ。
つまり、最初から説得力のない話として作られているのだ。
1人2役で贖罪の話をやるということは、この話は「そうだったらいいのにな」の話、つまりおとぎ話だと言っていることだ。
普通おとぎ話は大まじめにやる。苛烈にせめぎ合い罵りあい、吐き気がするまでテレビ台の上で回転する。そうしないと、本当にふつーの三文芝居になってしまう。
せめぎ合いが出来ず、白黒のコントラストが軽やかにテレビ台の上で回りながら抱き合う甘いラスト、ということは、端的に言って、「許してもらわなければならないのに、まだ言い出せず、自分の中で甘い逃避に浸っている状態にある。」ことの表現になる。

・・・ね。これはこれで成立しちゃうでしょ。表現が。
ちなみに「謝っているのに何をしたのかは口に出さない」という話は既に「許して下さい」(『雀』)にある。
つまり彼においては、テーマはシンプルではないが、明確に表現されているのだ。
二重構造をとっていて、上の構造の破れたとこから、中の構造が見える、という感じ。
ただ、「中味」の方のテーマは、テーマとしては余り意味がない。彼が今どういう状況にあるかの表明にすぎないから。これに興味を持つ客は彼自身くらいだろう。
これをもってすると、最早「コント」とか「コメディ」どころの話ではなく、「表現」ですらないのでは、という気すらしてくる。

疑問を持ちつつ、最後の話。なおこの話は最初の○を使った一発芸のようなコント群に対応している。
丸いものしか描かない貧乏な画家の話。
丸がいかに素晴らしいものかについて延々自説を垂れるが、同時にツッコミのナレーションも自分でする。
画家はたくさん丸いものを描いたが、「白い○」は描いたことがなかったことに気が付く。
なるべく大きな白い○を描きたい。そう、雪だるまを描こう。その作品は今までのものとは違う、特別な作品になるヨカーン。
準備は整い、公園に行って、後は雪が降るのを待つだけ。天気予報によれば大雪が降るはず。
しかし、雪は降らない。孤独感は増し、ただのツッコミだったはずのナレーションは、次第に彼に、描くことを止めるように迫り出す。
あなたは才能がないんですよ。今までの作品を描くときだって、いつも逆境に陥ったでしょ。向いてないってことですよ。これを言えるのは私だけだから言うんですよ。だいたい、雪が降らないのが良い証拠。
ナレーションに反論する彼の声はだんだん弱くなり、ついには説得される。
「もういいや。白い大きな○、できたから。俺の心の中に。ぽっかりと。」
そう、良かったですね。一番きれいな○ですよ。じゃあ、私はもう行きますね。
「お前は、誰なの?」
私はね・・・○、ですよ。
0時で消灯。真っ暗になった公園。
不意に白い雪が降り始める。
雪は強く降り続き、あたりは輝くほど真っ白。
全てから解放された彼は、単なる楽しみで雪だるまを作る。そして無邪気に雪だるまとあっちむいてホイ。
やがて遊び疲れた彼はその場で眠る。
生きる理由を失って2度と目覚めることのない彼を雪だるまは優しく抱き寄せ、歌のない子守歌。
スポットライトから暗転。

純粋な詩人の魂が社会に負けて天に召される「詩人の魂もの」の話(例『フランダースの犬』)の様に見える。
「才能がない」「向いていない」から「もうやめろ」という、まともごもっともな世間様(世間というのは、親族とご近所様だけで構成されているらしい)の言葉は、夢を追う者はみな1度や2度は聞いたことがあるだろうし、根拠もないが、反論も出来ないその言葉に唇を噛んだ者も多いだろう。
しかし、そうだとすると、親兄弟の言葉が一切話の中に出てこないというのはおかしい。
てゆーか、描くのを止めろ、と言っているのは、彼が愛してやまない○それ自身というのはいかにも不自然だ。
そして何より問題なのは、ラスト、白い○が出てこない、というところにある。
「詩人の魂もの」は鎮魂歌だから、最後に魂の純粋性が受け手に分かるように示されることが必須条件だ。
『フランダースの犬』は少年ネロの絵が大きな賞を取り、もし死んでいなければ奨学金を手にすることができた、というラストだ(原作は)。
現世で報われない場合には、神様が出てきて下さって、褒め称えたもーて下さる。それがなければ救いがない。
これからいけば、この話の場合は、白い○は全てを覆い隠す雪の上に完成しなければならない。もしくは光輪。
それがないというのは、作品としては救いがない致命傷だ。

要は、これは「詩人の魂もの」じゃないってことだ。

じゃ、これは、何なんだ?

なんと、続く!
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by k_penguin | 2006-03-22 00:18 | エンタ系 | Comments(2)

Commented by 無名 at 2010-09-06 17:44 x
ダメ出ししてみよう。じゃないですよ
何様ですか?
小林さんの作るものに限らず、それを好きな人だけがそれを楽しめばいいはずです
彼だってただの人間です
矛盾する部分や間違いや失敗があって当然です
あなたには1つの矛盾点も無いというんですか?
Commented by k_penguin at 2010-09-06 21:04
矛盾や間違いのない人しか他人の批判をしてはいけないとしたら、
誰も他人の批判はできないし
そしたら作品の向上もないですよ。

>好きな人だけがそれを楽しめばいいはず

それはあなたが決めることではありません。

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