三浦雅士『出生の秘密』その2 ダメ出し編   

2005年 12月 23日

その1はこっち。

三浦雅士にダメ出して?!ありえへん!
と、思ってたけど、この本の感想についての他のブログの記事なぞを見てるうちに、ま、やってもいいかな、とか思って。
でも、そんな大したダメ出しではない。最終章「魂の悲哀」に判りにくいって思ったとこがあるってだけ。
引用する。
・・・ふつう思われているのとは逆に、愛とは実は社会のはじまりでも自己のはじまりでもないからだ。社会のはじまり、自己のはじまりは、愛の抑圧、愛のねじれとも言うべき僻みの方なのだ。愛そのものは、逆に人から社会を剥ぎ取り、自己を剥ぎ取る。社会も自己も幻想にすぎないことを教える。なぜならそれは、価値の基準をずらすこと、いや、ほとんど溶解させることだからだ。ヨナが愛を恐れるのは当然なのだ。愛に深みを与えるのは僻みだが、愛の深みは愛ではない。

で、僻みと愛を共同幻想と対幻想やら象徴界と想像界やらに対応させて話が進むわけだけど、気持ちはわかるが話は判りにくい。
つか、自己意識の問題を「僻み」って思い切りひらたい言い方にしてしまった彼なら、ここももっとひらたい言い方にしてもいいんじゃないかなって。

ここで言う「愛に深みを与える僻み」とは「愛すること」で、「価値の基準をずらす」愛とは「愛されること」なのだ。
愛することは1人でもできる。抑圧することもねじることも。
対象の設定なんて、当人のさじ加減。会ったこと無い人だろうがアニメキャラだろうが、愛することはできる。
しかし愛されることは1人ではできない。もう1人必要だ。嫌でも「他」が流れ込んでくる。
「愛すること」の方が表現のテーマとしてはおいしいとこをいっぱい持っているから(何つっても自己意識の問題だからね)、こちらの方に眼は奪われがちだけれども、他人の愛をしっかり受けとめることこそが本当の愛じゃないのか。
「愛されること」こそが鍵なのではないのか。

「ふつう思われているのとは逆に」と彼は書いた。「ふつう」は「愛は社会のはじまり」と思われているということだ。家族が社会の最小グループと解されているからだ。
「愛されること」に最低2人の人間が必要であれば、それはやはり社会と呼べるだろう。
しかし、この本で語り尽くされているように、「僻み」もまた社会の始まりである。
すなわち、「愛されること」により構成される社会と、「愛すること」つまり「僻み」により構成される社会は別物なのではないだろうか。
ここもひらたく言えば、我々が現実に生活する場である身のまわりの人間関係から成り立つ実社会と、国家とか抽象化された社会の概念はまるっきり出自が違うのではないだろうか。
もっとひらたくすれば・・・・フツーが一番ってこと?!

ひらたくしすぎるのも問題だなあ。
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by k_penguin | 2005-12-23 00:45 | エンタ系 | Trackback | Comments(0)

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