ラーメンズ(その2) 自由って難しい   

連休中、ラーメンズの前半の5枚のDVD(DVD-BOX1,オンエアバトル)にすっかりはまっていた俺様がやってきましたよ。

ラーメンズのどこが好きかと言えば、何者でもない自由だった頃を思い起こさせる感じが好きだ。そんな私が、初期の名作『零の箱式』の中で最も好きなのは、実は「釣りの朝」なのだ。コバケン(小林賢太郎。彼が脚本を書き、演出もしている)は2つの世界を行き来することで、どちらにも所属しない自由な感じを出すことが多いのだが、「釣りの朝」はその、「どちらでもない何か感」を上手にすくい取っていると思うからだ。

最初にギリジン(片桐仁。織田裕二とCM頻出中)が、自分の歌う歌でコバケンが目覚めてしまったのに気が付いて「あ、ごめんね。寝てて良いから。」と言いつつも、歌を止めずに淡々と歌い続ける。
これを見たとき、ギリジンは女性という設定で演じているのかと思った。このような無神経さは女性のものだからだ。
その後も、アルミホイルを出して貰い、お礼の言葉の代わりにあきれたように「細かい」と感想を言うところや、「フィレオフィッシュを僕に買って『こさせる』。」というところなど、女性であるようなセリフが続く。
しかし、その一方でギリジンはバス釣りに出かけようとしているのであり、一人称は「僕」であり、釣り仲間に対しては完全に男性として電話をしている。
「?」が積み重なったころ、コバケンの一言で疑問は全て氷解する。
「お前は、俺の恋人だろうが。」
ギリジンはいわば男と女の中間という設定だったのだ。最初から台詞は計算されていたのだ。
そうと知って改めてこの作品を見てみると、時間は夜でもなく朝でもない「まずめ時」。
ギリジンはコバケンを釣りに連れ出そうとしているが、結局逆に釣られる。
ギリジンの歌う不条理な魚の3倍ゲームの歌が普通の部屋をどこでもない空間にあっという間に変え、とりとめのない魚のようなそうでないような話をするうちに、2人は人と人でないものの中間にいる様相さえ帯びる(普通、人は同性を恋人にはしない)。
自分が何者かを考えずにただ自分でいられる幸せな瞬間を見事に切り取っていると思う。

で、この「釣りの朝」と同じテーマをより深化させたのが『鯨』の中の「絵かき歌」、そしてそれにつながる「count」だ。
「絵かき歌」もギリジンの単調な歌から始まるが、ここでは「釣りの朝」と違い、部屋の中と外がはっきりと対立する2つの世界として描かれている。
コバケンとギリジンは人間の姿をしてはいるが、実は鯨であり、明日、鯨の姿に戻らなければならない。部屋の外の人間の社会では2人はそれぞれ別の「人格」を装っている(そういえば「釣りの朝」でもギリジンは「外」の釣り仲間に対しては男性として振舞っている)。絵かき歌の絵でいっぱいの部屋の中では2人は親子。鯨の。
なぜ鯨なのか。それは鯨が魚の形をしているが魚ではないからだ。
何者かであることを強いる社会がここでは出てきているが、コバケンはまだ幸せだ。
「北大西洋の暗くて冷たい、海。」が自分の本来の場所であり、そこに2人でまた戻れるからだ。
ドアの外から部屋の中に向かって、にやっと笑って言う最後の台詞、「チョー受ける。」が心地よい。

「日常の中の異常。異常の中の日常。」高橋幸宏がラーメンズを評した言葉だ。
2つの世界を行き来することにより、何者からも自由でいる。
それは理想であり、実現は不可能だ。断言しても良いが破綻が待っている。
だからこそ、まるで美化された思い出のような雰囲気すら持つシンプルな舞台。
これこそがラーメンズが後半よりも前半の方の評価が高い所以ではないかと思う。


ラーメンズ後半戦におけるコバケンの戦いについてはまた後ほど。DVD-BOX2まだ買ってないし。
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by k_penguin | 2005-09-20 02:57 | エンタ系 | Comments(0)

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