KKTV8 その2 どこに行くか分からないなら

今回の作品は、片桐さんが入ったせいか、建て付けがしっかりしていた。建て付けがしっかりしてるってことは、フツーに言うと完成度が高いってことで、でも完成度が高いというのは、すげー笑えるという意味ではなくて、『不思議の国のアリス』の世界を小林流に変換しているという感じがすげーするということだ。
作品中謎めいた要素は多いのだが、それは、アリスの要素の引用であるという説明が出来ることが多い。
こういうのは、俺のように、専ら小林さんが建てたものを解体している側にとっては手強いことになる。こちらは、『不思議の国のアリス』ではなく、小林さんの内面に関連づけたいからだ。
で、今回は注意深く,あまり深くは掘らないことにする。

前提として、8号車両の後部に貼ってあったカラスと書き物机のポスターに書かれていた言葉について。
カラスの方が「どこに行くか分からないなら、どの道を行ってもそこにたどり着ける」書き物机は「カラスが書き物机に似ているのはなぜか」。両方『不思議の国のアリス』の引用だ。




アリスブルーのジャケットを着た乗客(大泉洋)がアリスと言うことになろう。車掌の白兎(小林)が不思議の世界への案内役の白兎。隣の不思議な車両にいるのがハートの女王ではなく、クラブの王様(片桐)なのが原作と違うところだが、「王様」が今までのポツネンなどに頻繁に出てくるキャラであることを知っている解体部部員としては、これは不思議でも何でも無いところ。
さて、解体部が使用する解体道具は、ルイスキャロルではなく、ラーメンズの『ALICE』と、KKPの『ノケモノノケモノ』。

隣の車両は劇場で、最初の演目は『ALICE』の演目「風と桶に関する・・」のバリエーションである。ラーメンズの演目をやったんだから、もちろんラーメンズを意識しているのだが、違う点もいくつかある。
片桐さんは最初に目隠しをする。「目隠し」は最後のクラブのキングもするし、また、刑事ドラマでの刑事「王様」は最後のシーンで「ブラインド」をのぞいている。ここは、”明らかに付け足したろ!”とつっこまれたとこであるが、付け足したのは、キノコを出すためだけではなく、ブラインドを出すためでもある。
王様と目隠しは関連づけられている。「裸の王様」という乗客の指摘も同じ意味だろう。
つぎに、桶屋がヴォーカルを挟んで、桶屋が(5億円ゲットして)本当に儲かること、それは、目から鱗の魔神を騙していることが示される。最後は、「桶屋が儲かる」の文節を切りかえただけの「桶、矢ガモを狩る」。文節を切り替えるだけというのは、最後の「からすとかけてかきものづくえととく・・」の片桐王様の解釈と同じである。この演目は、『ALICE』からKKTV8へシフトすることを示したものである。

座席になぜか取り付けられたテレビ画面と弁当屋の「紙芝居」は、お題コントのトリックと似たように、2つの似た世界を行き来するのりしろの役目をする。
隣の車両とテレビの画面での世界(よくわかんない理想と8mテーブルクロス引き)の関連はよくわかんない。でも、両者は違う世界。
8mテーブルクロス引きが、小林さんのやりたいことの理想的なものなんだろうと思うが、それが昔の態度とまったく変わっていないことに少々唖然とした。そういう風に無邪気に遊ぶだけで済むならもうとっくにやっているはずで、それが長いことできなかったということは、できない事情というものが重なっているばずで、それを全部「無かったこと」にするということなんだろうか。
まあ、片桐さんが大人になっていろいろ割り切ってくれれば、あくまでも仕事として似たことはできると思うけど。
・・・まあ、それで良いか。桶屋が儲かれば良いんだし。

一方、つきあわされる乗客は難儀なことの連続だ。乗客は車掌につっこみまくっていて、あまり仲よさそうにも見えないが、車掌のピンチに、隣の車両に飛び込むという、意外な義侠心を見せる。彼に言わせれば、「自分のアナグラムのせい」で懐中時計が壊れ、車掌が王様に命をとられそうになったからだというのだが、いや、そんなリクツ知らんし。
この辺の構造はノケモノノケモノに似ている。とすれば、車掌がイルマということになる。トンネルを走る新幹線に閉じ込められているのは、車掌なのだ。車掌が外に出るためには、乗客に隣の劇場に入ってきてもらって、そして外の現実世界に出て行ってもらわなければならない。そのときには、(ハートのクイーンから変わった)「チケット」を持っていてくれなければならない。
乗客を追いかけるという形でなければ、車掌は(王様もね)外に出られない。

外に出た車掌に片桐王様が言う「感謝の心」は、まあ、そうなんだろうと俺も思うし、車掌もそうなんだろうとは思っているんだろうが(自分で書いた脚本だしね)、彼はあっさり王様をカードに替え、しまい込む。
今までも片桐さんはそういう使い方だったし、これからもそうだ。これ以外の接し方を知らないんだから仕方がないと思う。明確なプランも無く、どうなるかもわからないまま出てきた外の世界は怖いけど、それも仕方がないと思う。トンネルから出たんだから、目隠しも取れたんだろうか?それもどうだかわからない。
心に布って、そんな怖いか?って自分に言いきかせるくらいのことしかできないのだ。
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by k_penguin | 2016-07-03 02:36 | エンタ系 | Trackback | Comments(2)
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Commented by lotus at 2016-12-06 22:38 x
随分前の記事にコメントしてしまいすみません。高校2年の女子です。
前から小林賢太郎テレビは見ていて(5-8)そこから小林さんにハマりました。
ハマったのは小林賢太郎テレビ8の数か月前で、当初は講演の動画を見漁ってばかりいました。
その頃は正直ミーハーなハマり方をしていて(他の人の好意的なというか盲信的なレビューを読んで変にテンションが上がっていたせいもあります)
彼の作品を肯定的にしか受け取っていませんでした。なので、彼の作品を酷評するレビューがあっても単に「好みが分かれやすいのだ」としか考えていなかった様に思います。本題はここからです。前置きが長くてごめんなさい。ただ、その後考えることがあって、彼への評価が両極化しているのは「好みが分かれやすい」以前の問題なのでは無いかと今は思っています。私は全ての作品の動画を見たわけでは無く、他はレビューを読んだだけですが何となく傾向として感じたのは本人もファンもどこかで逃げていて見ないふりをしている部分が絶対にあると言う事です。ポツネンだとspotやdropのラストシーンの主人公の言動に、自分を騙している感じがありました。それに、盲信的なファンのレビューは作品よりも小林さんに重点を置いている様に見えます。作品中の人物に小林さんが自分を投影しているのなら、主人公の逃げは彼自身の逃げであり、ファンの場合はそれによって生じる煮え切らない部分を見ないふりをしてただひたすらに彼を崇拝している。小林さんが極端に嫌いな人の場合は私はわかりません。単に作品が嫌いか、彼が嫌いか、もしくはファンが嫌いかのどれかだと思います。ただ少なくとも、異常に崇拝する人は絶対に逃げているのだと思います。今回のkktv8では片桐さん演じる王様が乗客に、「裸の王様」だと言われているシーンがありました。何となく、このセリフは実は小林さん自身に向けられたものなのでは無いかと思います。
私は、小林さんの事は好きです。なので、彼が熱烈なファンの支持に甘えているとは思いたくありません。ただ、ファンの擁護や作品中の人物には見ないふりをしようとしているある意味悲痛な努力が見える気がします。
これらについてペンギンさんに意見を聞いてみたかったのでコメントした次第です。まだあまり自分でもよく分かっていないのと文章が拙いのとで読みにくいと思われますが、何卒ご容赦ください。長文ですみません。
Commented by k_penguin at 2016-12-07 21:50
lotusさん、コメントありがとうございます。
>本人もファンもどこかで逃げていて見ないふりをしている部分が絶対にある
  他人の書いた小林さんのレヴューをほとんど読まなくなって数年になるので、私は、小林さんを異常に崇拝するファンがどんな感じなのかは知りませんが(…そういう人がまだいたんだ!)、熱狂的なファンというものは、それが誰のファンであれ、現実逃避をしている部分はあるんだろうと思います。
でも、その一方で、現実から逃げることが必要なときもあると思います。辛いことを一時的にシャットアウトすることで心が楽になるのなら、そっとしておいてあげればいいと思います。
だから、逃げることの良し悪しを考えるためには、どんなことから逃げているのかを見極める必要があると私は思います。
 小林さん本人についても同じことです。
でも、めんどくさいことに、何から逃げているのか、見極めにくいんですね、彼の作品は。何かを見ないふりして、解決した風を装って話が終わっていることが多いので、何か腑に落ちない感じになることが多いですが、じゃあ何を見ようとしてないのか?と面と向かって聞かれるとよくわからない。それであれこれ推測したり想像したりでこのブログをやってきたようなものです。

ただ、私には、彼が見ないふりをするために悲痛な努力をしているようには感じられません。
彼の作品には「現実を見ないふりをする人」がよく出てきて、彼らは揶揄されます。「裸の王様」もそうです。見ない振りをする自分を客観視することはできているのです。
それなのに作品からは何かが抜け落ちる。まるでそれが当然のように欠落する。
その辺がどうもよくわからなかったのですが、まあ、今もわからんのですが、今はとりあえず、私は
彼は見ないふりをしているのではなく、本当に見えていないのだ
という仮説を立てています。
彼は、「見えていないのに、見えていないふりをしているだけ」なのです。つまり、彼が見ようとしていない事実は「みんなが見えているあることが本当は自分だけに見えていないこと」です。
じゃあ、みんなに見えるあることって、何だよ?ってなってしまうのですが、それが何であれ、見えてないのなら、仕方が無いよなって、私は今はとりあえずそう思っています